仁義をきった料理人


料理人が今のようにTVにでたり、本を出したりするようになり、メディアに普通に取り上げられるようになったのはつい最近のことです。


”私の記憶が正しければ”たぶんTV番組「料理の鉄人」が放映された頃から。


それまでは料理店が取り上げられることはあっても、料理人に目が向くことはあまりありませんでした。料理人というと、とかくやくざな存在と思われても不思議ではないほど世間的な地位は低かったのです。


実際大阪修行時代に調理場で話されることと言えば、いわゆる「飲む打つ買う」のお話、「昨日○○で飲みすぎた」「来週の競馬は○○から流すぞ」それにプロ野球贔屓球団の昨日の結果話ばかりでありました。「○○の料理がいいらしい」「○○の麺をたべたことがあるか?」なんていう食べ物、食べ歩きの話しさえ一切でたことがありません。もっともグルメとか食べ歩きなどという今ではすでに前近代的な言葉だって、当時はまだ現れ始めたばかりでしたから。



「包丁一本♪ さらしに巻いて♪ 旅に出るのぉが板場の修業ぉ♪」という唄を40歳以上の方は憶えていらっしゃるかもしれません。「料理人=オーナー」という今のような傾向になる前、料理人の多くは雇われる職人で、修行はそうやって旅に出ることが唄になるほど普通のことがあった時代もありました。ちょっと間違うと渡世人と変らない姿かもしれません。


実際、私が剥き物をならった師匠は、着物の袖口から刺青がみえました。彫り物をいれている料理人というのも昭和の初期くらいまではたくさんいたようです。なくなった父から聞いた話では、父が幼い頃(戦前 昭和初期)、料理組合の理事長を長くしていた祖父の元には口入(就職斡旋)の仕事もあって、職人が挨拶にくることも少なくなかったようでした。そんな中、玄関先で「手前生国と発しますところ・・・」と仁義をきっていた職人を確かに見た覚えがあるというのです。いまでは時代物の任侠映画でしか見ないような仁義が料理人の世界にも一部あったらしいのですね。


料理人がそんな立場にいた時代はそれほど前のことではありませんでした。


私がいつも「板前風情」という言葉を自嘲的に使うのは、そんな昔話の記憶が頭の片隅にあるからなのかもしれません。