修業時代のお話 その1


これまで断片的に修業時代のお話をしたことはありますが、まとまったお話はなかったと思います。


老人が「昔はなぁぁ。。。」と始める自己肯定満載の問わず語りに面白いものは全くないわけですが、職人人生にいつピリオドを打ってもおかしくない歳になると、まとめて書いておかないと忘れてしまいそうなこともいっぱいあります。面白がってくださる方だけに読んでいただければよしとして書いてみようかと思います。


私が生まれた実家は祖父が大正末期に始めた料理屋です。


祖父は小学校に通いながら働き始めた料亭で修行し、20代前半にはすでに当時では珍しかった東京修業を経て仕出し料理店を始めました。父はというと、次男に産まれたにも関わらず、戦争で長男が戦死、継ぐつもりのなかった料理店を継がされ、山あり谷ありはありつつも店は続いたのです。


父は私に「長男は店を継ぐのが当たり前、かまどの灰までおまえのものもんだ」・・・などとは一言も言わなかったのですが、組織では働くことがとても無理そうだとすでに高校時代には観念して店を継ぐつもりでいました。


とは、かっこよく言い過ぎているかも。祖父 父が築いてくれた物質的精神的遺産な数々は、人生にとって大きなアドバンテージ、これを生かさない手はないな、と打算的に考えたというのが本音です。


たまたま勉強も死ぬほど嫌いではなかったものですから、大学まで行かせてもらい、卒業後修業に出ました。


父は戦後の混乱期が修業時代でしたので、祖父に教わるという形でしか学ぶ機会がなかったこともあり、さらに、同業者の後継者の様子も見つつ「他人の飯を食う」ことは絶対に必要だと考えたようです。


ただ、修業という名前の通り、同業 おぼっちゃん育ちの後継者達には、半年で逃げてきたとか、一年持たなかったなどという逸話がいくつもあり、おぼっちゃんの典型のような私に果たして務まるのか?父は母はハラハラしていたはずです。



当時は調理師学校に入学して就職先を選んでもらう道はまだなく、情報も限られていた上、考えていた関西方面に大きなコネクションもありませんでしたので、祖父の兄弟子(立派な料亭を営んでいました)に紹介してもらうという方法で修業先が決まりました。


とはいっても、事前に「修業先はこちら」「持って行くものは○○と○○」と事前に言われてはいませんでした。


どうやら紹介してくれるのは関西の偉い職人さんらしいということだけはわかっていたのですが、どこで修業するかは行ってみるまでわからない。とりあえずの身の回りのものをバッグに詰めて「さて、私はどこへ行くの?」と不安いっぱいで大阪行きの新幹線に乗ったのです。


ゼミ同級生は30人中29人が一部上場企業の研修が始まったいた頃、私は人買いに連れられていかれるような気分で大阪に向かいました。