板前修業 その3
どんな名人にだって初心者という期間が必ずあります。
ある程度の技術を身につけてしまってからの方が長いものですから、後に初心者の時期を振り返ると短いものだったと思えるのですが、真っ只中にいるときにはそれはもう、焦り、苦しみ、イライラして、未来の兆しが見えない日々に打ちのめされるのです。
そんなとき、「誰だって同じような時を過ごすもんだよ。10年もして振り返るとあっという間だったと思えるから焦らないで」
などと声をかけてくれる先輩 指導者がいれば心も安らぐというものですが、板前の世界では皆無でした。
「あほっ!」「ぼけっ!」「かすっ!」「できそこない!」と怒鳴られる日々が続くのです。
私など、それはもう、鈍くさくて手際は悪いし、手先は不器用、覚えは悪い、なのにプライドだけは高いというどうしようもない見習いでした。
関西では最初の見習いを「ぼんちゃん」と呼びます。
16歳 18歳くらいでしたらぼんちゃんも呼びやすいのですが、すでに22歳。
ひねたぼんちゃんは「大学出ていてこんなこともしらないのか!」と年下に怒られるのです。
仕事ができなくて怒られるのが癪に障るものですから、本で理論武装なんかして、反論しようものならさらに怒られるわけで、、、そんなこんなの理不尽な日々が一年を過ぎて、後輩が入ってくる頃になると調理場内の立ち回り方も身について、仕事は未だよたよたでもなんとかやっていけそうな気がしてきます。
本当に不思議なものです。
一年経つと自然と仕事がほんのちょっと身につき、二年目には調理場全体が見渡せるようになり、段取りを覚えます。
仕事ができなくても段取りがわかるようになると、少なくとも足手まといにはならなくなり、三年目に入れば任される仕事も出てきて自信が芽生えてきます。
しかし、これがくせ者で、三年目に必ず手痛い失敗をして伸びた鼻っ柱を折られるのです。
そして五年目くらいに職人の入り口に立てたような気がしました。あくまでそれが入り口です。
それから5年、10年目でやっと一通りの仕事ができるようになるのが日本料理の職人の通り道でした。
私はというとそれから10年後 20年経ってやっと「この道でやっていけるかも。。。」と思えたほどのろまでしたが、ある時期からは「能力のない人間は、ほんのちょっとした積み重ねを日々繰り返すことでしか成功は得られない」ということだけは理解していましたので、時間がかかることに焦りはありませんでした。
大阪でのぼんちゃんの時代に得たものと言えば、仕事のいろは。。。よりは掃除の仕方であったり、人との付き合い方であったり、段取りの組み方であったりという職人の下地を作ってもらった気がします。
振り返ると長い職人人生の内のほんの一瞬であったわけですし、その後にも山も谷もあったのですから、一番大変であったわけではないのに、やっぱりあの時期を経なければ今はないなと確信できるのですね。