料理人の休日


銀行で眺めていた週刊誌に伊集院静さんのこんなコラムが


「日本の料理人の味が落ちた。週休二日で修行の職人までが休み始めた。体得するのに何年もかかるものが七日の間に二日も途切れては何も覚えられない。しかし、年季がくれば一人前と扱われ、当人までがそう思い込む。客は客で海外のタイヤ屋が選んだ味覚をもてはやし、料理評論家なるパッチモンが賞賛して田舎モンがこぞって押しかける。味もへったくれもない。ここに欧米をまねた愚行がある」


思わず書き留めてしまいました。


未だに連休をとるのに大きな決意が必要な古い世代の私には無縁のお話ながら、「七日の間に二日も途切れては・・・」の文字はなにか説得力を感じてしまいます。



昨今では料理にちょっとでも興味のある方々にとってミュシュランは、タイヤメーカーというよりは食ガイドブックとしての認知度のほうが高いくらいですが、スポンサー絡みの食ガイドブックしか世の中に存在しなかった1970年代には、ミュシュランはごく一部のいわゆる食通、フランス通の間で語られるだけのある意味憧れのガイドブックでした。


「フランスには☆印でランキングするガイドブックがあるんだってさぁ」



山本益博さんなどは、自らミュシュランの採点方式を研究し、ひとりで東京の料理店を区分けして食べ歩いた「味のグランプリ200」を書き上げました。1980年代初頭のお話です。評論家(という言葉もありませんでした)
が自らの舌と感性だけでランキングした稀有の本として当時はたいへんもてはやされたものです。益博さんのミュシュランへの傾倒は大したものでしたし、日本人のほとんどがミュシュランの何たるかを実感さえしてなかった時代のことです。伊集院さんの言葉はさておき、日本に食評論など存在しなかった時代ではミュシュランは憧れにすらなりえないほど外国の遥かかなたのお話でした。それが時代が豊かになるにつれミュシュラン方式を取り入れてお手本にしたという事実を、歴史を知るものとして頭の片隅に置いておきたいと思うのです。


あの時代、20年後に素人グルメ評論家がコンピュータを通じて世の中に大きく広がり、30年後には東京版ミュシュランが現れることなんぞ予想した人は皆無であったのです。