呆然の蓄積


前回は農口さんの日本酒に呆然として言葉が出なかったことを書き、前々回はハンス・ウェグナーのチャイナ・チェア、マリオ・ベリニーニのキャブに呆然としたと書きました。


振り返ると私、この呆然を大切にしたいと思ってきたようです。


職業である料理や日本酒、細かく言えば食材一つ一つに「えっ!ありえない」と呆然とした逸品を集めて仕事としています。


身の回りにあるもの、たとえば以前に話題にした靴も、日本の靴しか知らなかった私が始めてイギリスの靴を履いてみたときの感覚も呆然。スポッと(まさに音がするように)足が入って包み込むようにしっとりなじむ感覚を知ってしまうとそこから抜けられなくなってしまいます。私には高価で分不相応と知りつつ無理をして買ってやっぱり20年経っても大切に履き続けています。(夢はもちろんさらにいい靴なんですが)



スーツも同様です。先日息子達の入学 就職のために今流行の安売り店に出かけてきたのですが、その値段とコストパフォーマンスの高さ、店員の接客技術の高さに驚きました。私が愛用しているスーツの「0」が一つ少ない値段で接客は高級店のそれです。とはいっても私もお奨めを羽織ってみるとそれはそれ、当然のように着心地には天と地の開きがあります。


思えば、学生の頃買ってもらったスーツ程度のものしか知らなかった私が、初めてイタリアやイギリスのスーツを知ったのは30代に入ってからでした。当時はまだ「高級スーツはオーダー」が当たり前でしたが、ぼつぼつ入り始めたヨーロッパのスーツはまさに別物でした。肩にストッと乗っかるとかろうじて重さを感じるのはその肩の部分だけ、あとはどこにも圧迫感がないのにぴったりフィットしている姿を見てやはり呆然。日本のツルシしか知らなかった私には驚きでした。これも同じように分不相応と知りながら、私には高価なものをほんのちょっとだけ手に入れて悦に入るというある意味情けない状態が続いています。


ペン、自転車、楽器、絨毯、器などといったものを同様の感動がなければ興味を持たなかったんでしょうね。


よく話題にする音楽や映画、絵画、文学が感動に支えられているのは当然ですが、そのほかの身の回りにあるものも「呆然」がまとわりついているわけです。