大切なものは失いたくない


オーソドックスな料理のレベルが高いことはとても難しいことです。


たとえばどこでも出てくるポモドーロソースが、たとえば普通に焼いたように見える牛肉が、たとえば何の変哲もなさそうな麻婆豆腐が、たとえば誰が焼いても同じように見える鮎の塩焼きが、たとえばコンビニにだって売っているパウンドが、たとえば経験一週間のアルバイトでもつくれそうな焼き鳥が、たとえばコーヒーチェーン店にもあるようなサンドウィッチが、たとえば極めて普通なとんかつが。。。


この料理ってホントはこんなに美味しいのかぁ。料理人の技術というのはどこまで突き詰められるんだろう。この料理人はどんな修練を積み重ねてきたんでしょう。


そんな風に基本形ともいえる料理に目から鱗が落ちるように感動できるようになったのはわたくしの場合、やっと40歳を超えたころからのような気がします。それも同じ料理人、職人として心から尊敬できるような思いに打たれるようになったのは自分もそれなりの経験を積んでからのことです。経験があるからこそそれらのシンプルな基本を成熟させることの難しさが肌でわかるのです。


そんな感動を「○○のあの料理は素晴らしい」と日記に書いた時、多くの読者は普通に受け入れてくださっていたのですが、ずっと昔、かなり遠回しにですが「あれくらい普通じゃん」ともとれるようなご意見が書き込まれたことがありました。しかも運悪く造っていた料理人がそのコメントを読んでしまったのです。


料理人が自分の仕事にどれほどナイーブかお分かりでしょうか。遠回しであっても敏感に察知して当然のように落ち込みます。その仕事を尊敬している私の日記で、仕事を褒め称えたつもりが結果は悲惨なことに。


十二年目に入ったこのサイトはめったに荒れることがないという意味では奇跡的ともいえるかもしれません。でも一回でもこんな辛いことがあると、自分の本当に大切なものはこの日記で書いてしまうことにためらいを感じてしまうのです。昨日「ウィークエンドが素晴らしい」と書いた造り手の名前を明かさなかったのはそんな理由から。