ワインの価値の理解

clementia2008-04-04



ワインを店で扱い始めてから20年近くが経ちます。


20年間同じように一つ一つのボトルについてちゃんと理解していたか?というと、理解の速度は驚くほどゆっくりしたものであったといわざるをえません。何しろ情報は長い間ワイン屋さん経由のものだけであったのですから。一大ブームであった90年代半ばのころでさえ、net情報はまだまだ未熟で、本はもちろん、雑誌もワイナートのようなきめ細かな造り手のお話を聞くことはまれでした。(1999年春号のヴォーヌロマネの特集が私たちにとってはエポックメイキングな出来事でした)


ですから、頼りになるのはひたすら自分の舌。美味しいかどうか・・・だけであったのです。


今、DRCやルロワ、アンリ・ジャイエを語るのと15年前の認識では情報量の差は驚くほど違うのです。



90年代半ばやっと赤ワインが日本料理店でも売れるようになって、仕入れて置いたジュベリー・シャンベルタン ドメーニュ・ベルナール・デュガ・ピュを飲んだとき、「デュガっていうのはなんて素晴らしい造り手なんだ!」と自分の舌に深く刻み込まれました。といってもベルナール・デュガの造るワインが美味しいことは理解していてもどんな造り手であるか?までは知るべくもありませんでした。


それからほんのしばらくして、同じデュガでもクロード・デュガのジュベリー・シャンベルタンを紹介してしてくれるワイン屋さんがいました。「パーカーが五つ星の評価をする注目の造り手ですよ」  


ベルナール・デュガが全く手に入らないならこのクロードでもいいかぁ・・・とかなりいい加減に一ケース買ったジュベリー・シャンベルタン1996は8年の熟成で驚くほど華やかでブーケの豊かなワインとなっていました。ここでもクロード・デュガがどれほどの造り手であるかの情報はなく、ただただ美味しい・・・だけが舌の記憶として残ったのです。


とはいっても、クロード・デュガもその後全く手に入らず、1998年のジュベリーシャンベルタンが二本、グリオット・シャンベルタンがたった一本だけ入手できてセラーに寝かされていました。(因みに「手に入らない」というのは、料理屋で使える真っ当な値段でてにはいらないとう意味です)


買ったときにはあのクロード・デュガなら味わいには間違いはないはず・・・くらいの思いであったのが、後に調べると、彼の造り手としての評価が私の想像以上に高いことを知り、あの時「う!美味い!!」と思ったジュベリー・シャンベルタン1996をただへらへら美味しいだけで使っていたのはその価値を1/10も理解していなかったのではないかと悲しくなるほどのことであったのです。(今の時代、正しいかどうかはさておきnetで入手できるワインの情報の豊かさはたった10年前と比べただけでも飛躍的です)


かくして、その価値を理解した上で昨日お得意様にデュガのグリオット・シャンベルタンを飲んでいただきました。たった一本しか手元にないワインですから当然リストにも載せず、値段もお安くはないので、普段からそのレベルを理解してくださる方だけに紹介するワインです。


赤いベリーを思わせる濃厚な香り、口に含んだと同時に鼻に抜ける奥深いブーケ、ルロワのシャンベルタンにも似たとてつもない凝縮感、長い長い余韻。ヴィンテージがどうしたこうしたなんていうお話は消し飛んでしまうような凄いワインです。


それもそのはず、手に入れてから数年して知ったのはこのグリオット、一年に二樽しか仕込まれていないのです。つまりボトルにしてわずか600本だけ。本来なら極東の片田舎、日本料理店には分不相応なワインなのです。今、ネットで調べると最高額は店頭価格で1本17万円。最低でも4万円を下回ることはまれなのだそうです。私ン処では28000円。これまでたくさんいいワインをご注文くださった方には真っ当な値段で真っ当な味を。それが理解できる方であればおかしなプレミア価格はつけられません。


いいワインをいい飲み手に飲んでいただく。料理屋としてこれほど幸せなことはありません。