今はなき「播半」


お客様の口から懐かしい名前が出てきました。


「播半」


今はすでにない西ノ宮甲陽園の名料亭です。「播半」を料亭と呼ぶなら、私の店なんぞ何十年かかっても料亭クラスにはなりえないだろうと思うようなすべてに渡ってあまりにもかけ離れた別世界の料理店でした。


とはいっても私は「播半」では食事をしたことはありません。恐れ多くて予約もできませんでした。




私がこの道へ入るための最初の修行先を決めてくれたのは「播半」の親方でした。親戚筋の料亭のご主人に関西のドンと呼ばれた「播半」の親方を紹介してもらい、身の回りの一揃いをバックに詰めて父親と播半の調理場を訪ねたのは今から30年前のことでした。今の時代では想像もできませんが、自分がどこに連れて行かれるかも知らされないまま親方の元に伺い「○○へ行きなさい」と言われ、そのまま親方の息のかかった弟子の店に行って、即修行が始まったのです。人手の都合によっては播半でそのまま修行をしていたかもしれません。


播半の調理場は暗くて低い天井、ほとんどステンレスなど張られていない水回り、緊張感溢れる人の動き、煮方や焼き方までもが十年二十年は当たり前とみえる超ベテランぞろい。


「ああ、この店に入ったら十年たっても追廻かもしれない・・・」と恐れおののくような恐い雰囲気でした。


「まっ、播半のお座敷でもみていくか?」と連れられて入り込んだ料亭の中は、山の半分をそのまま使った母屋と離れが点在するまるで華族の邸宅のようなゴージャスを通り越した夢のような世界でした。


あの当時、今話題の吉兆さんも播半ほどの格式を感じない立場でした。料理人個人が脚光を浴びるような時代はそれから15-20年もたってからのこと、播半でさえ料理人で評価されることはありませんでした。グルメという言葉も食べ歩きという言葉もない時代、「播半」を使う人たちはクラスがしっかり分かれいて、「食べることが大好きだからたまには三ツ星」みたいに、誰でもがお金さえためれば超高級料亭へ・・・とは考えもしない時代のことです。


これからどんな優れた料亭が現れたとしても、経済効率が優先される時代が続く限り、一から播半クラスの料亭を作り上げることは100%不可能でしょう。ああいう料亭と調理場の雰囲気を肌で知っていることは私の財産の一つです。