店の歴史 その三


戦後は父の時代でした。


もともと父は次男坊、戦争に取られ九死に一生を得て戻ってみると、長男が戦死していました。時代は長男が後を継ぐのが当たり前のに時代、長男が亡くなれば次男。店を放り出すなど考えられなかったのです。


思いもよらず料理店を継ぐことになった父は、戦後の混乱の時代、修行に出ることは間々ならず祖父の下厳しく鍛えられました。しかし、いつの世も息子は父に反発しながら成長するものです。父は祖父の職人気質から脱却して、丼勘定だった店の経営を会社として成り立てようと考えました。経営者としての目を持つことは、職人として成功した祖父を乗り越えるための道でもあったのです。店を株式会社にし、経営の多角化にも努め、日本の高度経済成長とともに「ちゃんと儲かる店」に店を軌道に乗せたのです。



子供だった私の目にはいつも忙しく働く父母を見ていると、人から「老舗」と言ってもらえるせいもあってか、店はいつもゆるぎないもののような気がしていたのです。そんな日々の中、小学生の頃だったか父に「店がダメになったら屋台の天婦羅屋でもやるかぁ」とポツンと言ったことを鮮明に覚えていて、考えてみるとその時が経営的には父の正念場であったのかもしれないと思えるのです。私なんぞ、父に比べたら経営の才覚は皆無に等しいボンクラですので、年に一度は「店がダメになったら・・・」と考えたりします。父が祖父に反発しながら儲かる店にしたのに、同じように父に反発しながらやってきた私は、父が望まなかったであろう職人根性に根ざした店にしてしまい、儲かる店の身上を食いつぶして「なんとかやっている店」にしてしまいました。急死した父が今の店と帳面を見たら頭を抱えるに違いありません。


その後の店はご覧の通り、毎日日記に書いている中で、私が歩んできた足跡もポツポツと書いていますのでお分かりかと思います。