ターニング・ポイント


19日の日記のコメントに1980年のピカソ展やゲルニカのお話が出てきているまさにその時、録画してあった「人間ドキュメント」で取り上げられていた横尾忠則さんを見ていると、1980年のニューヨーク近代美術館での「ピカソ展」に触発されて、画家への転身を決意したと語られていました。


当時グラフィック・デザイナーとして世界的名声を手に入れていたにもかかわらず、その道を捨てての画家になることを決意させるほどの衝撃があった展覧会であったことに改めて感慨を深くしています。同じ展覧会を、一方でただただ「すげーー!」と恐れ入っていた板前と、これまでの人生の成功を捨てさせるターニング・ポイントとした画家の、器のあまりの違いに諦めにもにたため息をつくばかりです。


1980年、往復の航空券だけを手に、ともかく所持金が続くまでと、バックパックを担いでグレイハンドでアメリカ、カナダを歩き回っていた私の耳に、ウェスト・コースとにいた頃から「もうピカソ展には行ったか?」「いまアメリカに来ているならあの展覧会に行かない手はないぞ」「もうチケット入手は無理かもね」などなどの噂が始終飛び交う展覧会であったのでした。憧れのニューヨークについてはみたものの、チケットは当然ソールド・アウト。それでも試しに・・・と、MOMAニューヨーク近代美術館)のチケット売り場に出かけ「この展覧会を見るためだけに日本から来たんだけど・・・」と嘘八百並べ立てると、案外すんなりと「外国人のためだけの日があるから、当日朝並ぶといいわ」と日程を教えてくれました。日本でも日本国以外のパスポートを持っていると「桂離宮」も簡単に入れるのと同じように、アメリカ以外のパスポートを提示すれば入館できる日があったのでした。


当日、夜が開けきらぬウチにボロ・ホテルを出てMOMAに到着すると、そこに並んでいるのはわずか3人。日本のように「早くから並ぶ」という感覚があるのかないのか、いずれにしても同世代のフランス、スウェーデン、ブラジルそして私日本の四人の若者がそろいました。皆同じように貧乏しながら旅行中であったり、滞在中であったり、ともかくも片言の英語で語り合いなが四時間後の開館を待ったのでした。怒涛のピカソの感動の前に偶然居合わせた若者同士の熱い語らいは今も鮮明に記憶に残っています。