均一が正しいか?


ワインの場合、その年の葡萄の出来によって毎年味が変化することは周知の事実です。ワイン好きに言わせると「19○○年はいい年である」とか「○○年のこのシャトーは例外的に素晴らしい」とかヴィンテージによって評価が大きく分かれます。


昔は私もヴィンテージ・チャートを片手に良し悪しをしきりに気にしていたのですが、偉大な造り手の様々な年のワインをちょうだいする機会に恵まれることが増えてくるにしたがって、ヴィンテージの評価は良い悪いで語るべきものではなくて、各年のキャラクターと考えるべきだと思うようになりました。濃厚な味わいのものも、淡いものも、タニックなものも、酸がしっかりしたものもそれぞれにその年の個性として評価しなくてはなりません。


例えば、1984年のシャトー・ムートン・ロートシルトが1982年より不味いのではなくて、1984年はその年の個性として楽しみたいと思うのです。特にワインのように葡萄の出来がその年の天候に大きく左右されるたぐいのものの場合は年による違いはどうすることもできません。


ところが日本酒の場合をとってみると、原料が米。果実と違って味の差ができにくいこともあるかもしれませんが、各蔵の味は毎年ほとんど均一で、ヴィンテージ格差はほぼありません。造り手もあるいは飲み手もお酒の味は毎年均一でなくてはならないという暗黙の了解があるのかもしれません。


が、しかし、実際の現場では同じ酒米、同じ酵母を使っても微妙な味の変化は必ずあります。年による変化だけでなく、タンクによる違いもそれぞれにあるのが現実で、それを均一に整えるのも杜氏さんの大切な役割です。杜氏さんがあやつる酵母というのは実に繊細な生き物で、子供を育てるように大切に育むものと聞きます。


毎年の各蔵の全国鑑評会出品酒を頂戴すると、杜氏さんの「均一」ではなくて毎年の冒険を垣間見ることができます。蔵の名誉や杜氏の実力の評価を左右するような意味を持つ鑑評会では、毎年同じ酒を造るよりはさらに美味しいもの・・・・という試行錯誤をなさっているのでしょう。こういう渾身の一本をいただくと、日本酒もワインと同じように「毎年味が違っていてもいいではないか」「均一である必要などうしてあるのか」と思うようになりました。力のある杜氏さんの「今年の最上の一本の変化」を味わうことの楽しさがコンクール用だけでなく商品化できないものでしょうか。


味の変化を味の劣化と考える日本人、何かが変わるとすぐに「味が落ちた」といいたがる半可通が横行するこの国では無理かもしれませんが、偉大な造り手の試行錯誤をそのまま受け入れるような懐の深さがあれば、日本酒ももっと楽しくなるのではないかと思うのです。