不安


立ち止まってしまっている自分に気がつかないことが不安です。


フレンチのシェフとして尊敬している方の店がTVに出ていて、その皿を見たときハッとしました。一般の方が見たら十分美味しそうな一皿なのですが、私から見るとそれまでずっと維持しておられたきらめく様な輝きを感じられなくなっているのです。


「そのくらいの素材なら和食の私でも使っている」
「皿にパワーが感じられない」


私などどうあがいても届きそうもないところを突っ走っておられた勢いが感じられないのです。多分ご自身は立ち止まっているという意識はないのではないかと思うのです。


10年ぶりくらいに伺ったバーでも同じようなことを感じました。昔あれほど勢いのあった方が、普通の飲み屋さんのオヤジみたいになってしまっていました。10年という歳月は残酷です。


大吟醸を初めて扱い始めた頃お付き合いのあったある遠くの酒屋さんでは、20年前と品揃えがほとんど変わらなくなってしまっています。そのお酒のラインアップは一般では十分勝負できる内容なのですが、料理屋的には無理です。15年前でしたらその酒屋さんのお酒を並べるだけで胸を張って日本酒を語れたと思うのですが、その時代から日本酒は疾風怒濤の時代を向かえ三世代は移り変わっています。


贔屓だった蕎麦屋さんに久しぶりに伺うと、あまり美味しく感じられません。味が変わったとか、腕が落ちたとかではないと思うのです。もしかしたら私たちの舌が贅沢になり、より緊張感のある蕎麦屋さんを知ってしまったせいかもしれません。少なくもその蕎麦屋さんは止まってしまっています。それが残念です。


「変わらないからいい」というビールのCMがありました。今の激変の時代、食の世界においては変わらないことは後退していることと同じことです。


怖いのは自分が変わっていないことに気づかないことです。知らず知らずのうちに仕事に手垢がつき、今の仕事に満足してしまっていること、年齢を経てくるとその事実を認めたくなくなるのです。同じ業界でもそういう先輩をたくさん見ています。「あの方が・・・・」何度思ったことか。


私などもともと技術も才能もあるわけではありませんから、自分自身では突っ走っているつもりでも、はたから見れば立ち止まっているのではないかと思うような遅々としたスピードかもしれません。亀のようなスピードでも、今は前に進もうという意欲だけはとりあえず持ち続けているつもりなのですが、それがしだいにさらに遅くなり、止まってしまう時代が来るのでしょう。止まってしまったということに気づくのは、止まった後ずいぶんしてからなのではないかと思うのです。そのときが来るのが限りなく不安です。


ジャズ・ピアニスト菊池雅章さんの”POESY”という昔のアルバムには”THE MAN WHO KEEPS WASHING HIS HANDS”という副題がついています。英語的に意味があっているのかどうかわかりませんが、自分の手にまとわりついたものをいつも洗い流しているような職人・・・・そんな風でい続けるのが理想です。