器使い


久しぶりに島田の「藪 宮本」さんへ蕎麦を食べに伺ってきました。


いつぞや書いたように皿にみなぎる緊張感というのは相変わらずで、蕎麦のひとたぐり、ひとたぐりがしみじみ美味しい。


そしてさらに素晴らしいのはその器使いであります。蕎麦屋さんでこれほど器の趣味のいい店を私はしりません。


特注らしき編みが緻密なざる、蕎麦猪口と薬味入れの染付けは骨董かも、折敷きの盆は民芸風の塗り、海老のかき揚げは輪島の朱塗り、穴子のてんぷらはどっしりとした瀬戸風の俎板皿。バランスが素晴らしい。どこにも「蕎麦なんだからこの程度でいいか」という妥協がない。そのセンスは楊枝入れと楊枝の材質、七味唐辛子の入れ物まですべてに行き渡っています。


いい蕎麦屋さんというのは器にも気を使っていらっしゃる店が多いのですが、この店のようにきらきら光るセンスが座卓の隅々まで感じられるのは稀有のことです。


蕎麦そのものの美味しさについてもそうなのですが、ここのご主人という方は値段との折り合いとか、客筋との折り合いとか、土地柄との折り合いとかいう言葉を知りません。


自分が積み重ねてきた正しいと思うものをそのまま店で表して、それに見合った対価を請求しています。


よくある「こだわりの」ラーメン屋さんのように「素材は○○を使っている」「この順番が正しいのだからこのように食べろ」「長年の研究の成果である」みたいな主張はどこにも表示していなくて、皿そのものにしか現れていません。


器にしてもどこかの料理店のように「輪島の○○を使っている」「作家の○○さんの作である」などの主張はやっぱりなくて、目の前にある器だけが美しい。


店の理想はこうありたいものです。


ただ、その主張は見事に値段にも反映されていますので、その値段を正当なものであると評価できる方にしかお奨めできないお店でもあるのです。


そこんところが難しい。