言葉と料理


つくづく日本料理を選んでいてよかったなぁ、と思います。


尊敬する中華料理店のご主人は「やっと手には入った」と言って、全く私など読むことができない中国語の料理辞典を喜々として小脇に抱えていらっしゃる。


彼は、店を長期に休んでも香港、中国へでかけて、直に空気に触れ、食材を手に入れ、料理を学んでこられる。


やはり尊敬するフレンチのオーナーシェフは、高校で既に将来を見据えて、フランス語の勉強を始め、調理師学校卒業後、即フランスへ。


8年の滞仏修行の後、いきなり自分の店を持ち、圧倒的な存在感のあるフレンチを創作なさっています。もちろん夫婦して当たり前のようにフランス語をしゃべり、フランスの文化を丸ごと理解していらっしゃる。


フランス、しかもパリではとうとう日本人夫妻がレストラン(当たり前ですがフランス料理の)を開き、ロブションの支持も得て、ミュシュランの星を取る勢いさえ持つ店に仕上げてると聞きます。


私はといえば、日本にいて日本の食材を主に使い、日本語で理解できる文化の中で仕事をしています。


文化とか言葉とかの理解という壁を乗り越える必要は全くありません。


調理師学校に通う若い生徒達が、フランス料理、イタリア料理、中華料理を目指す、という話を聞く度に、「ホントにいいの?言葉は?」と余計なお世話ながら思ってしまいます。


文化とか言葉を理解し、その国に滞在して料理の修行をしなければ、その国の料理はできないとは言いません。


いい例が、志摩観光ホテルの高橋調理長。渡仏の経験がなくてもフランス人のスーパースターシェフさえ唸らせる料理を作られています。


ただ、高橋調理長のフランス料理の理解の奥の深さとか、芸術への意識の高さは底が知れないほどレベルの高いものです。


さらにいえば、ヨーロッパで時間をかけ料理の修行ができるようになったのは、せいぜいこの二十年くらいのことです。


それも、フランスなどでは明らかな人種差別もあり、有名レストランでは研修と称して日本人を安い給料で使っていると例もあると聞きます。研修をした日本人も、「○○○」で修行(研修ではなくて)というハクが付きます。(ビザの関係もあるのだと思いますが)


一方で、コートドールの斉須さんのようにベルナール パコーの片腕であった料理人までいることを思うと、フランスで修行というのもピンからキリまで、どれほどのものを身につけ、食べてきているかは全く本人次第、帰国後の皿の上でしか判断されません。


私の子供の頃のように「フランス料理らしきもの」さえなかった頃に比べれば、ずいぶん食べる側にとっては幸せな時代です。


この十年位の間に、目の上の鱗が落ちるような思いをさせていただいた各国料理の職人さん達が正しく理解されて、「らしきもの」との違いがもっと明らかになって欲しいものです。


あーーーー!
奥歯に物が挟まったような物言いになってしまいました。
いいたいことが、うまく伝わらない。