盗人


修業時代
私が料理の世界に入った頃
「味は盗むものだ」と言われ
鍋洗いをしながら、雲の上の存在である煮方が洗い場によこした鍋の
わずかに残った煮汁をこっそりなめて味を覚える・・・
なあんて真剣にやっていたのですが
そんなことで味が再現できたり、技術が盗めたら天才です。
できるわけありません。



調理長、(おやっさんと呼びます、関西では。)
立板、煮方、など一番えらい人たちは秘密の手帳を持っていました。
「割」が書いてあるのです。
割とは覚えた調理手順と調味料の割合のこと
絶対的な決まりはないのですが
その人の料理人生の集大成と言っても過言でない大事な手帳です。
皆苦労した汗の結晶であるわけです。


そのころ私は一番の下っ端
おやっさんの着替えの手伝いまでする、ほとんど奴隷のような存在です。
その日の仕事が終わるころ、おやっさんの着替えを手伝っていると
調理長室の机の上に「手帳」が置きっぱなしになっていました。
「お疲れさまでした」と大声で見送ったときもの無造作にそのまま
普段は机のどこかにしまわれているものです。
「見たい!」と真剣に思いました。

同僚はまだ後かたづけ中
無断で見ているところを見つかればただではおかれません。


翌朝、始業時間の3時間も早く仕事場に到着して
ドキドキしながら「手帳」を開き
必死で書き写してしまいました。
とんでもない盗人です。
ひどい罪悪感があるものの
「これで、料理はすべて拾得した!」くらいのすごい高揚感もあって
一番下っ端なのに心の片隅でもう俺の方が・・・
なんて免許皆伝の巻物を手に入れたような気分になったものです。


とはいっても
仕事は相変わらず鍋洗い、下処理などなど
「ぼんちゃん」とか「あひる」とか呼ばれる存在で
「手帳」の成果を披露する機会などありません。


何年かして煮方もするようになって
「手帳」を虎の子のように大事に参考にしようとすると
これが、実際にはほとんど参考にならない。
「割」というのは
その人のその職場のその献立の中での割合であって
万能ではあり得ないのです。
というよりその人だけのものなのです。
おやっさんも「手帳」の割をその都度変化させながら調理していたのだと思います。


今現在、私も自分の「手帳」を持っていますが
門外不出でも秘密でも何でもありません。
若い者がいつでものぞける場所にポンと置いてありますし
割を聞かれればすべて教えます。
ただ、この割というやつ
調味料のメーカーが変わっただけで
がらっと違ってしまいます。
2年ほど前、良い酢を見つけ
それに変えたと同時に酢関係の割はすべて変更されました。
私の割を見ている弟子達は
「あれれ?味が違う」
と思ったかも?