板前殺し


大切なお得意さまのAさんが転勤されます。
新店舗になってからのお客さまですから、古い馴染みではありません。
が、
板前をいい気持ちで仕事させてくれる希有のお客さまでした。


初めは、これも手を決して抜けないお得意のBさんが連れてこられました。


なにより、Aさんは、いつもスピーディに元気に食べてくださいます。
お酒も、1品についてグラス一杯くらい、もちろん乱れることなど決してありません。
そして、その日力の入っている食材や料理法には必ず
「これ、うまいですねー」
と一言添えて。
後は、ホントに美味しそうに黙々と食べてしまう。
特に、私の方で力作と言わなくても
誉めるタイミングとツボを見事に心得てらっしゃる。


板前って単純だから、こんなことが二度三度と重なれば、
食べ手としての力量にすっかり参ってしまいます。


よっぽどうまいものを食べてきたんだろうと想像できるのですが、
「私はただの意地汚いくいしんぼですから」
と、
蘊蓄をたれるようなことがない。
こんな方には多すぎる料理の説明は野暮になるだけです。


予約が入れば、Aさんのことをイメージした献立を考えようとしますし、
一匹の魚の中でも、美味しいところはどうしてもAさんに出したくなってしまう。
これ人情です。


板前殺しの誉め言葉を持ちつつも、厳しい食べ手であったAさんのおかげで
ずいぶん勉強させていただきました。


一見(いちげん)から、裏を返し、馴染みになる
手当たり次第にいろんな店に行きたい方もいらっしゃいますが、
ここと思った店に通ってみるのは
店を育て、うまいもの食べる最上の方法なのではないでしょうか。


Aさんはこれから移られても、一生私ン処のお得意です。