『沈黙‐サイレンス‐』


原作を超えた映画に出会うことはまれです。


文学としての密度が高いほど、2時間の短い時間でそれを表現し超えていくことは至難の業なのです。


漫画ではありますが、「この世界の片隅に」は原作を超えた・・・というよりも、原作を踏まえた上で、さらに豊かな表現で多面的に聴衆にうったえかけた希有な映画でした。


これほど原作と映画の素敵な関係が築けた例は記憶にありません。




先週末、楽しみにしていたスコセッシの『沈黙‐サイレンス‐』を観に行ってきました。


この映画を観るために遠藤周作の原作を数十年ぶりに読み返すほど、映画に期待していました。


遠藤周作「沈黙」は、若い頃、文学の奥深さを私に突きつけてくれた個人的最重要文学作品でした。


読んでいる最中も読み終わった後も、言葉たちが頭の中を巡り、深く心の奥底に沈殿していくような感動をずっと味わい続けていました。


歴史や宗教を超えて、人間の業の深さを目の前に表され、呆然とし、立ち尽くし、言葉で表現されているのに自らの言葉を失うような絶望感にとらわれいるのに、なぜか涙の後のカタルシスのように高揚感に満ちあふれているのです。


文学の偉大さをこれほど感じた経験は多くはありません。


数十年を経て名作を読み返すとき、新たな視点を得たり、別の感動を感じたりすることも多いのですが、映画の前に読み返した「沈黙」は30代の若い頃と全く同じ感動を私に与えてくれました。


で、
さらに映画は。。。。


それはそれは素晴らしい作品でした。


文字から私の頭の中で紡がれた作品が、スコセッシの手によって映像になったとき、そこには間違いなくスコセッシの「沈黙」が目の前に現れるのです。


スコセッシの感動が、若い頃神学者を目指そうとしたほどキリスト教に深い理解のあるスコセッシの目を通した作品の奥行きが私の心に突き刺さってくるのです。


この感動体験は映画でしか味わえません。スコセッシのような偉大な監督だからこそ味わえる感動にあふれているのです。


スコセッシは遠藤周作に深く感動し、スタッフ役者たちはスコセッシに深い敬意をいだき、日々映画作りの充実感の中で自らを表現しようとしているのが本編には溢れかえっています。


見ている私たちはその膨れあがった文学と映画への愛情のお裾分けをいただいているかのような満ち足りた時間を映画館の中で感じることができるのです。


そこには映画が原作を超えるなどといった比較や競争はすでに存在しません。お互いが尊敬し合いより高い世界が見えてくる、そんな高いステージを見せてもらいました。