日本酒の歴史〜昭和30-40年


昭和20年代後半の混乱期に始まった三増酒の時代は、昭和30-40年代に急成長期を迎えます。


日本中ががんばって働いて経済は右肩上がり、豊かな時代にはまだ時間がかかりますが、先が見えない暗い時代から明るい未来を信じた時代です。工業化、技術革新はお酒の世界でも広がり、日本酒はこの時期に生産量が三倍に増えました。昭和38年、「月桂冠」が業界で初めて生産量10万石を突破し、昭和45年には50万石を超える生産量となります。十年も満たないうちに5倍に跳ね上がると言うのがこの時代を象徴しています。日本酒は造れば造るだけ売れる夢のような時代でありました。工業化、大量生産が正しい時代で、手造り少量生産「昔ながらの」から脱却したいと世の中全体が動いていた時代でもあります。今の時代感では信じられませんよね。


そこで通常化したのが桶売りという手法です。この地方の小さな蔵が桶ごと大手に売る桶売りが全盛を迎えたのは昭和30年代でした。昭和42年のデータでは全国に3780の蔵が存在し、84.2%が桶売りをしていたといいます。これらの桶売りの日本酒の70%以上が大手15社で買われていたのです。「何も他の蔵から買わなくても自分で造ればいいじゃん」と思われるでしょうが、そこには法律の壁も存在していました。その当時全国の各蔵は製造石数が国によって決められていて「お前ンところは○○石」「あんたは○○石」と。(しかもそれは昭和9-11年の実績を元にしていたのだそうです)それでは自社でどれだけたくさん造りたくてもできなかったのですね。そうやって桶売りの体制ができると小規模蔵は大手に桶売りし、日本に溢れるお酒は大手のお酒で満たされたのです。


桶売りを否定的な目で見ると、地方の蔵が自分の責任のないお酒を適当に造り、大手がブレンドして味を調整して大量に市場に流す。そんな図式を想像するかもしれませんが、決してそうばかりではありません。ある蔵のインタビューで聞いたことですが、例えば「剣菱」などは酒米から製造法、熟成の期間まで厳しい基準を設け、それがクリアできない蔵からは桶買いはしなかったといいます。戦争の荒廃で設備もままならない小規模蔵が経済の急成長とともに立ち直ることができたのは経済的にも技術的にも桶売りがあったからこそともいえます。桶売りのおかげで生き延びることができたことも頭の中に入れておくべきです。質の悪いものを適当に作り儲けるだけ儲けよう・・・という安直な思考から桶売りが生まれ、顧客をだまそうとしていたわけでは決してありません。桶売りが正しい酒造りであるかどうかはさておき、時代が必要としたものであることは間違いありませんし、その課程があったからこそ日本酒業界の経済成長があったことは事実です。


よくこの時代を「人任せ桶買いした質の悪いお酒を大量に販売していた日本酒歴史の汚点」と評する方々がいますが、これって品質の高いものを捨てて利益のために安物に走ったわけではないことが歴史の流れの中でみえると思うんですね。そういう批判をみると、現在の経済効率主義やデフレ時代のコスト削減安売り主義を、50年後の日本人が「技術があるのにいいものを造って正しい値段で売っていなかった悲惨な時代」と批判するのと同じような気分になるのです。



この時代は世の中全体の空気も質より量の時代でした。働け働け、たくさん造れもっと造れ、造れば造っただけ売れる。品質や安全性を問い始めるのは高度成長に一区切りがついた頃、真っ只中にいれば誰も「量よりも質のいいものを」などと考えません。そういう考え方自体が存在しなかったのです。「桶売りは間違っている」「いいお酒だけを造ろう」などとは思い浮かびさえしないのが昭和30年〜40年代の時代感であったのです。


あの当時、大手のお酒は「高級の証」「ブランド」でした。地方の蔵のお酒は安い不味いと信じられていましたし、事実見るべきお酒の情報も品物もありませんでした。


地酒の第一次ブームがやってくるのはその後昭和50年代のことです。しかし、昭和40年、初めて飲まれるお酒の量はビールが一位に躍り出て日本酒を追い抜いているのです。時代は底のほうで動き始めていたのかもしれません。