日本酒の歴史〜戦中・戦争直後


三話目にしてやっと歴史らしきお話になります。


日本酒の製法は第二次世界大戦と敗戦後の困窮でダメージを受けました。国家存亡の危機に「うまい純米酒を・・・」の気運が生まれるはずもないことは誰が考えてもわかります。その後の昭和30年-40年代も簡単にそこから立ち直れないことも容易に想像がつきます。国民全体が貧乏な時代、急成長を遂げるために一心不乱に働く時代、そんな時代に生まれたお酒、蔵の意志とは別に国家の統制と国の財源のために紆余曲折を強いられた日本酒を、豊かな時代しか知らない世代が批判することは「時代の空気を読めない(知らない)」所業であると私は思うのです。



三増酒(さんぞうしゅ)という言葉を聞いたことがある方も多いと思います。詳しくは三倍増醸ブレンド酒といいますが、「戦争中につくられた三増酒がみんな悪いんだ」という論調はよく聞きます。


実はこれはちょっと違っていまして、戦争中に造られたのは「普通アル添酒」というお酒で三増酒ではありません。いわゆる普通酒というお酒には二種類があります。「普通アル添酒」と「三倍増醸ブレンド酒」 


戦争中の物不足はお米にもおよびました。日本酒を造るためのお米もかなり不足していた時代で、アルコールを加えることでお酒の全体量を維持しようと考えたのです。というのも、戦争といえどもお酒は兵隊さんたちの士気に関わるものですし(旧日本軍の売店のようなものを”酒保”と呼んだことでも象徴されます)、なにより前回お話したように税金を得るための大切なシロモンです。「戦争に酒で酔ってる場合か!」とはいかないのですね。このアル添酒、研究は昭和17年〜19年の間に行われ、昭和20年から実用化されました。(案外戦争も末期です)因みに精米歩合もこのころ厳しく統制され当時85%精米くらいが標準であったのが、米不足にしたがって94%に、それを上回るためには許可が必要であったとも聞きます。さらには税金の徴収が簡単になるように小さな蔵が国の力で統合されたのもこの時期です。少ない米からいかにお酒を造るか・・・涙ぐましい努力が行われたのです。しかも、蔵元の意思ではなんともできない規制がたくさんありました。


さて、
悪の元凶とよく槍玉にあがる三増酒は戦後、さらに食料不足に陥ったころに昭和23−24年頃に試験が行われ、四年後に一般に普及していったのだそうです。単にアル添しただけでもお酒が間に合わなくなり、純米酒を三倍の量にできるほどのアルコールで薄められ、単調になった味を糖類(ブドウ糖、水飴、白糠糖化液など)酸味料(乳酸、コハク酸クエン酸、リンゴ酸)調味料(グルタミン酸ナトリウム)で整えたものを造り、さらにこれをアル添酒に20-30%ブレンドして出来上がります。


昭和20年代から40年代にかけて、日本酒と言えばほとんどがこの三増酒でした。「日本酒はべたべたして美味しくない」という刷り込みが出来上がってしまった私などが最初に触れたのもこの三増酒、父親の世代は何もない時代に酔いをもたらしてくれる貴重な存在が三増酒であったのです。今の基準で考えれば、純米しかなかった時代から混ぜ物まがい物でどうして満足していたのか?と思われるかもしれませんが、私が知っている昭和30年代は日本中がまがい物に埋め尽くされていました。この時代を知っていたら、今の中国を半笑いで見ることなんぞ出来ようはずがありません。ちょっと前、私たちが同じようだったのですから。まがい物がまがい物であったと知るのは本物を知ってからのこと、「本物志向」などという考え方はまだ浮かびもしないほどまだ日本は貧しく、それしか知らない世代にはそれが当たり前であったのです。それでも酔える幸せを感じていた時代だったのかもしれません。酔える幸せのずっと後に、味わいを求める時代がやってくるのです。


三増酒が悪い」のではなくて、三増酒が世の中に溢れたのは時代の必然で、貧しい時代を生き抜くための我慢。。。でもなく、懸命に働いて仕事終わりに酔う幸せのためのお酒だったわけです。経済が成長し、「さあ、質の時代だ」とばかりにまずかった三増酒から一気に純米酒に移行して「美味しさの時代」に突入するはずもないのです。今でさえ「辛口のお酒ください・・・を考え直してみよう」と言い始めて20年近くなるのに、未だに「辛口」の定義も定まらずに「信奉」を続ける日本人を振り返れば、簡単に時代が動くはずもないことは明々白々です。