和食点心〜美意識の違い


久しぶりの東京での昼ご飯。夕食が重めの予定でしたので、「お昼は軽めに和食でお弁当でも」と予約したのは招福楼東京店(丸ビル内)でした。


近江の本店にお邪魔したのはすでに十数年前ですが、その印象はいまでも鮮やかに心に残っている日本料理の名店中の名店です。上野に出店されたときにも注目していたのですが、その後丸ビルに移られ、しばらくは予約が取れないとも聞いていました。



最初に現れたお造りは「鯛とあおり烏賊」 その姿を見ただけで支店、しかもお手軽な点心とはいえさすがの風格に期待が高まります。


「鯛とあおり烏賊」という組み合わせだけでしたら、自分の店でも全く不可能ではないはずです。しかも器に使われている明代後期の古染め付け写しは、料理の値段なりにこなれた器(本店のそれにはくらべるべくもない)のはずなのに、店の持つ品格と盛りつけ切りつけの鮮やかさ、素材の良さが加わってワンランクもツーランクも上に見えてしまいます。これが名店の真の実力なのです。


本店には伺ったことがない連れ合いと娘も、最初の一品を見ただけで「この店凄いわね」と口を揃えます。私が造る料理もそれほど遜色ない素材のはずなのに、一品を見ただけでどうやってもかなわない店の格の違いを嗅ぎ分けています。やっぱり同じ価値観でずっと料理を見つめてきた家族ならではの共通する美意識があるのです。普段は必ず備忘録として食べた料理をiphoneで撮っている娘も「この店は携帯で写真撮っちゃまずいよねぇ」と。


たった一品のシンプルなお造りで見せつけられる力の差はなんなでしょう?


きっと代々受け継がれる茶の湯の素養、きらめくようなお道具類と美しく整えられたお庭など研ぎ澄まされた世界ではぐくまれた育ちの違いともいうべきものの差です。それはまさに板前風情があたふたしてもとどくはずがない美が育てたバックグラウンドが、自ずとお手頃であっても料理に現れているのです。


美味しい料理を美しい器に盛る。料理屋が当たり前にやるべきことも受け継がれた美意識の裏付けが品格の違いを生み出すのでしょうね。


やっぱりこの店を選んでよかった。招福楼さんに伺えば、私の身にまとわりついた手垢のようなものをきれいに洗い流してくれると思ったのです。確かにこの店の料理をいただくと「なにやってんだろ、俺。ちゃんと原点に帰れよ!」と道をしめしてくれます。


料理そのものに芸術作品はないと信じている私ですが、茶の湯と同じように、料理店に入ってから出てくるまでのすべての行動を演出するという意味では招福楼さんは芸術の域に近い世界を築き上げていらっしゃると言って間違いありません。


この存在は日本の宝なのです。