基礎教養の欠如?


昨年の大河ドラマ平清盛」を面白くみたものですから、今回の「八重の桜」も・・・と見始めると、脚本「山本むつみ」とありました。即iphoneに入力すると「御宿かわせみ」「慶次郎縁側日記」「げげげの女房」を書いた脚本家とすぐに現れます。


知らないことはチョイチョイと調べればすぐわかる時代なのです。私たちが若い頃のように、知識を蓄積する必要など無い時代なんですね。



若者の基礎教養の欠如が始まったのは1990年代なのだと言われているそうです。日常的に知識を蓄えるよりも、自分の好きな分野に特化して情報を集め楽しむようになったのはその時代からなんだとか。だからといって若者に基礎教養 一般知識がないと年寄りが嘆きだしたのはその時代からというわけでもなく、太古の昔から「近頃の若いモンはモノを知らない」と嘆き続けているような気もします。




正月休みの間、TVを横目で見ながら本を読んでいました。


芸人がひな壇に数人でている番組にチャールズ・チャップリンの写真が出てきました。山高帽にステッキのメイク写真では無くて、50−60代とおぼしき素顔のチャップリンです。出演している今をときめく芸人たち全員が「誰これ?」と。一人としてチャップリンを認識できる人間がいないのです。


「近頃の若いモンはモノを知らない」と年寄りが嘆くというのとはちょっと次元が違うような驚きでした。



ソロでコンサートを開けるようなチェロ奏者がパブロ・カザルスを知らないとか、ジャズサックスをバリバリ吹ける奏者が「チャーリー・パーカー?誰?それ?」って発言しちゃうとか、サッカー少年がメッシに全く興味なしとか、書くことを生業にしようという人間がドストエフスキーなんて名前聞いたことないとか。。。


そういう括り方で芸人の無教養を嘆くというのともちょっと違うような気もします。


チャップリンを知らなければ芸人がTVで面白いことを言えないわけではありませんし、芸能人全員が映画好きなわけではもちろんありません。




それでご飯を食べている生業とする分野での知識とか情報量とか時代をさかのぼった教養とかいうお話も、1990年代を境に変化しているんでしょうかねぇ?


昔読んだ本の中で、「教養というのは知識の蓄積ではなく、感動の蓄積である」というような趣旨の言葉があって(ニーチェの孫引きだったかも)それが未だに私のよりどころなんですが。。。チャップリンを知っていたのは、やっぱり感動の蓄積として心に残っている訳なのです。私自身がチャップリンの数々の映画に感動し、1977年のクリスマス(チャップリンが亡くなった日)にたまたま梅田花月のすぐ横の映画館で「黄金狂時代」を楽しんでいたという思い出と共に一生心に残る映画人なのです。知識とか教養とかではなく、人生の経験のひとつとして大切で、感動と共にチャップリンを知っていることが私には一番大切なのです。