Nコンの感動から「創作」に思いをはせる


毎年話題にしているNコン(NHK全国学合唱コンクール) 録画しておいた番組の初っぱな高校生の部、トップバッターの宮崎学園高校ですでに感動の嵐、涙を抑えることができませんでした。


この数年、宮崎学園高校のパフォーマンスの素晴らしさは群を抜いているのですが、今年の表現力の豊かさ、ぬきんでた個性はミュージシャンとして尊敬に値します。残念ながら私の思惑とは違い銅賞ではありましたが、宮崎学園高校だけで四回も繰り返し観るほど私の心を打ちました。彼らの創作意欲の源はなんなんでしょう。



「創作」という言葉を思い浮かべた時、ちょっと前に見かけた料理店の「創作○○」の文字が思い返されました。この何年かの流行の「創作和食」「創作中華」「創作イタリアン」「創作フレンチ」 すべてのジャンルに「創作」の文字が立ち並びます。これらの「創作」のすべては宮崎学園高校のあの厳しい創作と同じレベルの修練があるのでしょうか?


私の超個人的、独善的思いでは、料理店が自ら名乗る「創作」には美味しさや独創性や本当の意味でのクリエイティブを期待することは100%ありません。「創作」の多くはコンサルタントやメディア、料理を知らないオーナーの思惑しか感じられないのです。粗悪素材をごまかすための「創作」 調理技術の未熟さを隠すための「創作」 消費者を踊らすための「創作」(繰り返しますがあくまで極私的思いです)


実際私が尊敬する料理人が自ら創作を標榜する方は一人もいません。一つのジャンルの本道を歩まれている方々は、他のマネではない創作がいかに難しいものであるかを身に染みて理解していらっしゃいます。どこか別のジャンルから切り取って貼り付けたような料理、別のジャンルの本来の美味しさを知らずに手法だけを頂戴して○○風として作った料理の薄っぺらなことは、本歌を知らずに本歌取りをするような恥ずかしさに満ちているのです。


もちろん力のある料理人たちは日々新しい食材 調理法にチャレンジして、「もっと美味しいものを」とトライするのですが、私のように陳腐な頭と技術しかもたない人間では30個料理を思いついても、生き残るのは一つくらい。それでさえ、5年後も献立に使えるかどうかさえ怪しいものです。たとえ、他ではやっていない料理ができあがったとしても、ファインアート 音楽の分野での天才達の「創作」意味を知っていたら、自分の料理を「創作」などとは口が裂けてもいえません。


創作 クリエイトというのは私にとってそういうものなのです。


宮崎学園高校の10代の若者の人の心を打つパフォーマンスを観て、人の心を打ち、いつまでも心に残るような仕事ができるようになったら、もしかしたら「恥ずかしながら創作です」と言ってしまうかも。。。。って120%ありえないけど。