理解力の差 言葉の差


有名日本酒への料理屋側の思惑と世間の認識のギャップは大きいってことに気づかされた「ほろ酔い祭り」というお話を昨日しました。


もう一つ、「ああ、そうなんだぁ」と思い至ったことがあります。これも実は当たり前のようでなかなか受け入れにくいことです。




ほろ酔い祭りでお越しの、とある熟年ご夫婦のご主人のご注文で、「南部美人 純米吟醸愛山 無濾過生原酒斗瓶限定」をお出ししたときのことです。


一通りお酒の説明もしてお奨めしました。奥様が一口召し上がったご主人(60-70年配)に「どう?美味しい?」と尋ねると、ご主人一言。


「変わってる」


「変わってる」という表現がいいかどうかではなくて、このお客様の日本酒の経験とボキャブラリーには「変わってる」としか表現のしようがなかったんだな、と、大げさですが稲妻が落ちるような勢いで心に突き刺さりました。


この年配の方にはありがちですが、無濾過生原酒やおりがらみという日本酒の分野は味的にも知識的にも経験がないということなんでしょう。普通酒の燗酒とか水のようにスルスルな喉ごしの冷酒、花のような香りと甘味の大吟醸という超定番だけが日本酒であると舌も頭も信じていれば、お出しした超限定の南部美人などはるか範疇外、門外漢、アウトサイダーなわけです。「甘口」「辛口」しか表現方法を持たなければ「変わってる」という一言はまさに的を得ています。飲んでいただく私たちは「おお!美味い!」と一言言っていただきたいだけなのですが、「美味い」の前に「変わってる」という言葉を受け入れられない単純ボクトツな今までの私は、ちょっと立ち止まりました。


「香り立つライチのようなアロマ、口に含むとパーンとはじけるパンチ、舌をぎゅっと収斂させるような旨みの凝縮感、口全体に広がり余韻として残る芳醇」


なんて言葉は経験値のなせる技で、いろいろな種類の日本酒の経験が導いてくれるのです。日本酒を表現する言葉を持つ必要がなかった時代を過ごした方と、豊富な極上の存在とそれを飾る言葉に恵まれた時代では単純にいい悪いで区別するべきではないのかもしれません。ましてやこちらはその道でご飯を食べているわけですから。



言葉を覚え始めた小さな子供が夕焼けを見て「真っ赤で綺麗」というのと老練の詩人が「針一本 床に落ちてもひびくような 夕暮れがある」と言葉にするのでは同じ夕焼けであってもたくさんみた夕焼けの数と、研ぎ澄ました言葉の数の違いがあるだけなのです。




振り返ってみれば、ワイン一つとってもグランバンの豊かで妖しい香りと美味しさの断片が理解できるようになったのは40歳を越えてからでした。そこに至るまででさえ経験を積み重ねてやっとたどり着いたことを思えば、「安いワインだって美味しいものが」とグランバンの経験が全くない方に、長い熟成を経てピークに達したグランバンワインを飲ませても「スルスル喉ごしがいい」くらいにしか思えないのです。日本酒でも全く同様です。「甘い辛い」の二分割の表現しか持たない方に、味わいと香りが複雑でエレガントな日本酒を飲ませても、ボキャブラリーと経験がなければ「甘い」か「辛い」しか言葉が出ないものであるはずです。美味しささえも理解できるかどうかもわかりません。


舌は経験の積み重ねだけがものをいいます。


まだ美味しさの経験値も情報もない方々に、幸せな豊穣体験を味わいと言葉で地道にお知らせするのも私たちの使命なのですね、きっと。「せっかくの銘酒をなぁぁんもわかってない」と裁断してしまいがちな自分にハタと気づいて冷や汗がでました。