「ご祝儀」という感覚 「気持ち」という表現方法


30代のころ、名人といわれた剥き物の師匠について勉強をしていました。


南京を木の葉の形に剥いたり、蕪を菊の形に剥いたり、菖蒲 燕子花 菊などの季節の花を始め、難易度が高くなると祝い席の鶴亀、干支十二支、七福神鳳凰などなど4-5年も習えば、素人が「おお!」と驚く剥き物を見てもあまり驚異を感じないほどの技術は身につけたつもりです。


ただ今現在はその技術をお披露目する機会はほぼありません。


その当時と料理自体の傾向も食材の傾向も変わってしまい、剥き物をありがたがる前に食材を突き詰め料理そのものをざっくりと美味しく仕上げることに日本料理がシフトした結果なのだと思います。


さらに、婚礼や結納の席では鶴亀の細工をつけるのが当たり前であったのに、結納自体がなくなり、和食の婚礼もなくなって剥き物の出番はほとんど皆無に等しくなってしまいました。


そういう実質的な理由以上に昨今の「ご祝儀」感覚の喪失に大きな原因もあると思うのです。


私が剥き物を習った当時は、祝い席に鶴亀を剥き、双尾鯛(ふたおたい)を用意すれば、お客様は必ず「いい仕事をしてくれてありがとう」とご祝儀をくださいました。もちろんそういう仕事をするのはお得意様に対してお祝いの気持ちをこめてすることですので、「剥き物代」と料金はもらわないのが当然です。料理人の気持ちに答えてご祝儀をくださる。金額の問題ではなくて「気持ち」の問題なのです。それが双方に当たり前のように存在していました。


ご祝儀が期待できるから鶴亀を剥くのではなく、「気持ち」に「気持ち」で答えるお互いの呼吸があったのだと思います。



旅館に泊まれば、まず仲居さんに「よろしくお願いしますね」とご祝儀を渡す。七五三時期に、ばったり知り合いの七五三祝いの家族が着飾っているのに出会ったら、「綺麗にできたねぇ」とポチ袋に「おひねり」(お小遣い)を忍ばせてお子さんの帯にはさんであげる。タクシー運転手さんを待たせてしまったら「ごめんね。これでお茶でも」と小さな金額を懐紙にくるんでさしあげる。





昔も書いたこんなお話を蒸し返しているのはさとなおさんのこんなお話を読んだから。


お話も後半の”ちなみに、この話をすると、最後のところで引っかかる方がいるですね。「係の人は仕事でやっている。普通に遺失物係の仕事をしただけじゃん。それは運賃などの中に含まれている当然のサービス。なんでお土産なんか持って行くのかわからん」みたいな”という部分。


ポチ袋や懐紙をバッグに入れておく私にはほどんど異星人の思考です。



私が若いころには、調理場にはお客様から頂戴するご祝儀を貯めておく缶がおいてありました。半年に一回は従業員全員に均等割するくらいのご祝儀を頂戴していたのに、いまではご祝儀袋やポチ袋をみることは数年に一回。お金が欲しいんじゃぁなくて、「気持ち」を現す人間関係が希薄になってしまったことが残念です。



とはいえ、ご祝儀ではなくて、季節の折々に「はい、これお土産」と極上の名産品をお持ちいただいたり、ヴァレンタインに欠かさずチョコをくださるお得意様がちゃんといらっしゃいます。こういう「お気持ち」を現してくださるお客様がいらっしゃることが本当にありがたく嬉しいのであります。