味の記憶


皆さんは味の記憶をどれくらいまでさかのぼれるでしょうか?


「思い出」ではなくて「記憶」です。


「ああ、あの店、美味しかったなぁ」というぼんやりした「思い出」はほとんど場合増幅された限りなく幸福な体験として美化されます(ということを以前に書きました)ここで言いたいのは、そういう思い出ではなくて、料理の献立とひと皿の骨格をつくる味わいの冷静な記憶です。


たぶん、私の場合ですと、記憶として思い返せるのはせいぜい15-20年くらい前までです。つまり30歳くらいからやっと味を自分の記憶の引出にしまい込めるような舌ができあがり始め、美化される思い出ではなくて、料理人として力になり得る記憶ができるようになってきたような気がしています。



そんなことを思い返していたのはつい先日のこと。


ちょっと遠い処にある、とある鰻屋さを25年ぶりくらいに訪問しました。テーブルに現れた鰻を食べつつ「あれぇ?昔食べた鰻ってこんな感じだっけ?」記憶をたどってもぼんやりとして味わいが思い出せないのです。


思い出せないながら、たぶんその鰻は四半世紀前とあまり変わらないのではないかと思うほど、ある意味古くさい(ひねた言い方をすると手垢のついた)シロモンでした。普通に考えれば、鰻を蒲焼きにしてご飯にのせるだけの鰻丼に新しい古いもあったもんじゃぁないと思われるでしょうが、米の流通も四半世紀前といまでは大きく変わり、鰻の養殖の技術も少しずつ変化し、添えられる漬け物のあり方も変わってきています。常に先を見据えた鰻屋さんは料理だけでなくサービスや器まで含めて、いつも「手を洗っている」(という言い方をよくします)、つまり変化し続けているものです。


自分の生業である料理の周辺に目を向けることを怠らずにいなくては、変化しないような鰻や蕎麦、定番の丼物でさえ、自分の位置に安穏としていればお客様においていかれるだけのような気がする恐怖感にいつもさいなまれています。


鰻を食べつつ、「大丈夫か?俺 手垢ついてないか?」といつものように自分自身を振り返っていました。