修行にまつわるお話〜その2


最近では蕎麦屋さん ちょっと前だとラーメン屋さんなどには、脱サラ組が多くいるらしいということを昨日も書きました。一方、日本料理店では修行をどの店でどれほどの期間してきたかというのが、大きな勲章になったり、負い目になったりします。


私の祖父は、大正期に東京へ修行に出かけたことが飛躍のための大きなきっかけになりました。今では想像もできませんが、浜松と東京という物理的な距離感もさることながら、大正期に東京まで修行に出るというハードルの高さは、現在のヨーロッパへ料理修行に出るよりも遙かに大変なことであったようです。東京の修行を終えた祖父は、当時の浜松屈指の料亭に20代半ばで調理長として招かれたと聞いています。それくらい東京への修行というのは箔がつくことであったのでしょうね。


反対に父は、戦争にかり出されて命からがら帰郷したばかりの頃に修行が始まりました。戦後のどさくさ時期ですから、修行に出ることができず、祖父に鍛えられました。父に言わせると、親子故により厳しくなったのだそうで、職人気質だった祖父はたいそう調理場では厳しかったようです。とはいっても、いくら厳しくても修行という外の飯を食べてくることができなかったことが精神的には死ぬまで負い目になっていたようで、私には「店を継ぐ気があるのなら必ず修行に出るべき」と強く主張しました。


35年前の私の修行なんぞ、当時はそれなりに大変だとは思っていましたが、職人としての仕事の多くをそこで学んだとよりは、「その飯を食べてくる」ということに大きな意味があったように今では思えます。仕事の多くは帰ってきてから自分で切り開いていった方が圧倒的に多いのですから。


同世代近辺でも同じ時期に修行に出た二代目三代目が何人かいたわけで、中には修行が辛くて数ヶ月 一年で戻ってきてしまったものもいます。修行というのはともかく最初が肝心なんですね。未だに逃げ帰ったことが彼らの大きな負い目となっていることも事実です。実際私が最初に入った調理場でも一年に15人近くが新しく入ってきたのですが、一年後に残ったのは私を含めて四人だけ。三年後には二人だけしか残っていませんでした。


当時でも「石の上にも三年」が当てはまっていて、三年は我慢することはある意味絶対条件でしたし、三年という期間は見事に一つことをクリアするためにぴったりの時間なのですね。三年たってみると一皮が間違いなくむけているのです。


などというのは35年前のお話、今周りを見渡せば、修行に入って三年以上を一つことで全うできる若者がいかに少ないか。もうそんなことを言っていること自体、化石化した古い考えなんでしょうね。でも、最初の店で三年をクリアできない若者が、私よりもはるかにレベルの高い仕事をし大成したという例を知りません。一人くらい私が兜を脱ぐ弟子が現れたら・・・・いや、現れないというのは私の育てる力が圧倒的に不足しているからなんでしょうね。