広がる嫌悪感


松本某大臣の宮城県庁での村井知事への高圧的な態度は、TVでみた瞬間に「カーーーッ!」と脳内が煮えたぎるほどの嫌悪感を感じました。


封建的な上下関係がはびこる板前社会ゆえかもしれませんが、私が20代30代の若い頃はこういう風に上からモノを言う年上世代がたくさんいて、彼らの態度をじっと我慢することの連続でした。一瞬に20年をさかのぼって悔しかった思いが頭の中で渦を巻いたのです。


出会ったその日は「○○さん」と呼び、ちょっと間をおけばすぐに「○○君」になり、懲戒的な意味をこめて呼び捨てになるというような、自分が上の立場であることを知らしめるための態度、発言を日常にするような人間は唾棄すべき存在であると思っていましたし、上下関係で立場の優劣を操るような輩は一生許さないと心に決めていました。


そんなことをとある知り合いと話していたとき、「でもね、あなたのすべての人に敬語で接する態度は、壁を作られているような気がするかも」と言われたのです。


そう、物事には常に多面性があるのですね。


そのとき、松本某の話をすぐに怒りにまかせて板前日記に書かなくてよかった(結局書いてますが)と感じたのです。


すぐに書くことを押し止めたのは、それだけではなく、facebooktwitter上で松本批判の嵐が吹き荒れる状態を見て、「ああ、これ、いつものバッシングにつながっていくのかも」と、一歩ひいて見る心を呼び戻してくれたのです。


1995年のオウム真理教事件の狂乱、イラク人質事件での自己責任問題、沢尻エリカ「別にぃ」発言での強烈なバッシング・・・などなど。すべての事件で私自身は明らかに狂乱の中批判側で発言していました。


メディアを中心に事件を善悪の二元論で単純化し、国民が熱狂して行く姿はどうやらあのオウム事件や神戸連続児童殺傷事件の1995年あたりから顕在化し、メディアは魔女狩りのための生贄を探しているのではないかと思うほどこの熱狂があっという間に広がる世の中になっています。


戦争の時代のことを振り返った時、軍部の独走が国を誤った方向に導いたと言われ、新聞もラジオもそれを煽ったと伝えられていますが、私が最近一番思うのは、国民はだまされていた・・・のではなくて、国民の熱狂こそがあの時代に陸軍の後押しをし、熱狂する国民を煽るというよりも、国民にわかりやすく支持されるためにメディアも追随したのだという思いにいたっています。


国民の熱狂という意味では、この時代も同じ影が宿っているのかもしれません。それを私は冷静に見る能力を養っていきたいと思うのです。松本某の品位にかける人間性を憎む心は残しつつ。


あっ、それから松本某が「被災者の方々にお詫びする」前に、まず宮城県民が選んだ村井知事本人に直接誤るべきだと思うんですけど・・・違いますか?