お節料理今昔


年があけてからまだお節料理の話ができるのは、こんな時しかありません。


私どもの店は、この地でお節料理を販売した最初の料理店であるようです(祖父談) 戦前からお節料理の販売をしていて、父の話では、戦後初めてお節料理を売れるようになったとき(昭和20年末か21年?)、「早朝店の雨戸を開けるとすでに長蛇の列ができていて驚いた」というのです。


その頃(戦争前後)に日本では、基本的にお節料理は自宅で作るものでした。世の中にはスーパーマーケットはもちろん存在しませんし、デパートでお節料理を売るということもありませんでした。街にあるのは八百屋 魚屋 乾物屋 あってもお惣菜屋くらい。それらの店で材料を買い揃え、自宅で調理するしか方法がなかったのです。かまぼこや金団 伊達巻などは売っていても、味のついた数の子も、出来上がった田作りも、パックに入った煮物類も存在しなかったのです。店で出来上がった料理を買ってくるという発想自体がありませんでしたから、料理店でお節を売るというのは希少でもあったのです。


昭和30年代、弁いちで作られるお節料理は、お得意様が自前で持ち込まれるお重箱に詰めるものでした。小部屋にお客様の重箱(ほぼ100%が輪島塗)が並び、一つ一つに荷札がついて、「金団多め」「鳥団子20個」「甘いもの抜き」「海老はいらない」「田作り少量で」などと一つ一つに注文がつき、一階の調理場で仕上がった料理を、二階のお座敷で一つ一つ注文に沿って盛り付けていきました。思い返して見ると、それらには「○○円以内で」とか「合計○○円で」などという値段の指定は一切ありませんでした。料理屋にお節料理を頼む方々というのはそういう階層の方だったのかもしれません。中には店の玄関にどっかり座り、一品一品の料理を小皿に全部持ってこさせ、「これを○○個、こちらを○○個」・・・と大晦日に現場で注文しながら盛り付けさせるようなお客様もいました。


時代はちょっと下って昭和40年代。お得意様のお重箱に詰めるやり方では仕込み量が計算しづらく、ロスも多いために、店で用意した折箱(お重箱)に店で考えた献立を詰める方式に変りました。高度経済成長もあってか、お節料理の注文は年々増え、その数に対応するためにはオーダー別の詰め込み方式では対応できなくなり始めていたのです。今では当たり前の、店が独自に作ったお節を使い捨てのお重箱に詰めてお客様が注文するという形態ができたのは、エポックメイキングな出来事でした。その時代、昭和40年代-50年代にかけて、今までお節料理を作っていなかったホテルや大型の料理店が参入してきました。お客様の選択肢は増え、中華お節や洋風お節が出てきたのもこの時代です。その時代になると、スーパーでもお惣菜の一部として単品の黒豆や田作り、金団などといったお節製品も売られるようになり、デパートでもお節が手に入るようになってきました。しかしながら、基本はまだまだ自宅の自作お節で、乾物屋魚屋が軒を連ねていたこの町では28日-大晦日の賑わいはアメ横並みの人出で、師走の雰囲気が盛り上がっていました。


続く