京都 長谷川等伯展


長谷川等伯展が日曜日までと知って、あわてて京都へ出かけてきました。高速道路を1000円でつかえるのもあとわずかですしね。


東京での等伯展の混み具合を聞いて、行くのは無理かなと思っていたのですが、京都は東京ほどではないともいいますし、連休明けでもあります。


昼食での「千ひろ」さんのお話では「ウチの若いモンが連休明けの平日に出かけても一時間待ち、連休中は二時間待ちでしたから、それなりのお覚悟があったほうがいいかもしれませんねぇ・・・」と脅かされます。


が、
いざ出向いてみると時間が遅かったせいか、20分待ち。意外にすんなり入場できました。とはいえ、中は激混み。いやいやどんな混んでいてもその絵の前でじっくり待っていれば必ず目の前で見られるのです。要は根気です。おかげでたっぷりと等伯に浸れました。等伯といえば、枯木猿猴図 竹林図くらいしか知らなかったのですが、萩 耿介さんの大力作「松林図屏風」を読んだことで他の作品にも興味を持ち、永徳とのライバル競争、息子久蔵との親子関係と作品など、ずっと身近に感じていた絵師でした。ところがいざたっぷりとその画業を見せ付けられると、一つ一つの作品の奥行きも去ることながら、多様性に圧倒されました。これほどバラエティーにとんだ作品があったとは・・・実際に一堂に見てみなければ実感できませんでした。ある意味ピカソと同列で語れるほど様々なタイプを描き分け、時代によって変化しているのです。


ピカソといえば、以前にも書いたことがありましたが、1980年にゲルニカがスペインに帰ることを記念して催されたニューヨーク近代美術館でのピカソ展も同様にあふれんばかりのピカソ、時系列で様々な画業を見せ付けられる怒涛のピカソでした。規模はともかく、今回の等伯も時系列で多くの作品が見られトータルに感じられたことは大きな成果です。やっぱりこういう展覧会はできうる限りみたいものです。


ピカソ展と等伯展、違っていたのは会場の混み方です。


ピカソを見ようと思ったときはアメリカ国内を半年間旅行している最中でありました。西海岸にいる時点から「ピカソを見るのは困難だろう」「チケットは売り切れているはず」と言われ続けていました。NY到着後、ダメモトでMOMAの窓口に出かけ「この展覧会をみるために日本からやってきたんだ」とすがりつくように訴えると、あっさり「外国人のための開催日があるからパスポートを持って並びなさい」と言われ、朝五時から並んでチケットを手に入れたのです(列の二番目でした) おかげで同じように並んだ、フランス人ブラジル人スウェーデン人の若者(同じくアメリカ旅行中)と、並ぶ最中に打ち解け、待つことがちっとも苦痛ではありませんでした。


ともあれ、そうやってチケットを手に入れた後、入場の制限、チケットの販売数が適正なために、会場はファイン・アートをみるためには適正な混み具合で、作品一つ一つをじっくり見ることができる体制が確立されていました。そろそろ日本もそういう形をとらなくてはいけないのでしょうね。これだけ美術ファンが定着しているのです。見せる側の努力、創意工夫もさらに積み重ねていただきたいですね。