映画「ハート・ロッカー」


休日に映画「ハート・ロッカー」を観てきました。


敵と味方が戦場で相見え戦う・・・映画として記憶に新しいのは「プライベート・ライアン」の凄惨な戦闘シーン、私たちがイメージする戦争の凄惨さはここに尽きたました。しかし1990年代以降、イラクのクエート侵攻の時のアメリカ軍が発表した映像は、まるでコンピューターゲームのようで、敵を殺しているという実感がない戦いでした。アメリカ軍が開発してきた戦争は素人目にもその形が明らかに変ったことを明確に示唆していました。


この映画にも敵らしい敵、悪を象徴するような敵は現れません。しかし、戦争にともなう「死」は最初から最後まで途切れることなく付きまとっているのです。それは観客の心をひりひりさせるような緊張感を持続的に突きつけてきます。


憎むべき敵、打ち倒すべき敵がいないのに突きつけられる「死」


この感覚どこかで・・・と考えてみたら、「ディア・ハンター」で感じた「死」の緊張感と同質のもののような気がしてきました。あの映画のロシアン・ルーレット シーンで描かれた死とのあい対し方は敵との戦いではなくて、強制された死そのものとの対峙でした。



戦争で人間が殺されること、一人の死は同じであるのにその重さは映画の表現によって皆異なります。「レッド・クリフ」で兵卒達がドカドカ虫のように殺されていくシーンや「ブラック・ホークダウン」で現地黒人民兵がバタバタ死んでいくシーンと、この映画で一人が殺されるシーンでは心への響き方が違うのです。


この映画では新しい戦争における死の恐怖を描きながら、「ディア・ハンター」で描かれたのと同じ、死への極度の緊張感が人間を麻薬のようにその緊張感に駆られる姿を描いているのです。戦争は人間の精神をどこへ持っていってしまうのだろう・・・その恐怖が見える映画でした。