「映画」グラン・トリノ

1972年型フォード・グラン・トリノ


1972年という年はクリント・イーストウッドにとっても輝かしい時代が幕を開けた頃です。1971年には「ダーディーハリー」の大ヒット。1972年には初監督映画「恐怖のメロディー」 1973年は「ダーディーハリ−2」再びの大ヒット。


グラン・トリノが強いアメリカを象徴するような車であるように、車が登場したころイーストウッドも強いアメリカの男の象徴としてハリウッドの寵児であったのです。



映画の中では、朝鮮戦争に参加し、フォードで誇り高い強きアメリカの象徴する車を作ってきた主人公も最愛の妻を亡くし、息子はグラン・トリノの対極になる日本車を販売し、孫たちも含めて「頑固でとりつくしまのない爺さん」になり果てています。昔アメリカでは、車の職工がこぎれいで小さな家を持てることができたというのに、車産業を支えた同じ町の住人達は斜陽化する車会社と同じようにその街から去り、周りには東洋人たちが住み始めています。


隣に越してきたモン族の家族。ワル連中に無理強いされてグラン・トリノを盗もうとした隣家モンの息子は、姉のスマートな努力をきっかけに主人公老人と触れ合っていきます。


自分の息子にまっすぐに向き合って男の在り方を伝えることができなかった孤独な主人公は、いままで蔑視してきた東洋の少数民族の男の子に強い男の在り方を伝えることに喜びを感じ始めるのです。




いい映画は必ず細部に細やかです。イーストウッド映画でもそれは全く当てはまります。ストーリーの流れに違和感を感じたり、人物設定が雑であったり、カット割りが適当であることがありません。むしろ、私たちが理解できないところまで綿密なのです。


たとえば、民族的な視点だけでもそうです。主人公はポーランド系で、少年は中国系でもベトナム系でも韓国系でもなくて、1960−70年当時アメリカのベトナム戦争を手助けした国境を超えたモン族。主人公がけんか腰で親密の情を表す床屋はイタリア系、最後のシーンで見える景観でさえ東洋系(中国??) 民族がもつアメリカでのバックグラウンドをもっと知っていればさらに奥深く映画を見られたでしょう。


映画で重要な役割を演じる若い神父の主人公へのかかわり方も緻密です。主人公への呼びかけがミスター・コワルスキーなのかウォルトなのか、亡くなった奥さんが言い残した懺悔がどう主人公の行動にかかわるのか。一つ一つのこまやかな積み重ねが映画に説得力を与え、単純な老人と少年の触れ合いを重厚なものにしていくのです。


しかしそれにしても、「ミスティック・リバー」「ミリオンダラー・ベイビー」「硫黄島二部作」「チェンジリング」と人の心の奥底に踏み込んでいったイーストウッドが、アメリカの男を描く映画を俳優として最後を飾る映画に持ってくるとは思いませんでした。主人公は「スペース・カウボーイ」や「シークレット・サービス」で描かれた頑固で融通のきかない男。むしろ一番近いのは「ハートブレイク・リッジ」の鬼軍曹ではないかと思うようなベタなイメージさえあります。「ダーティーハリー」で名声を獲得したイーストウッドはこの映画で自分の俳優としての映画人生に落とし前をつけたかったのかもしれません。


映画人として今もっとも尊敬できる存在クリント・イーストウッド、関連する作品はこれからも見逃せません。