蕎麦のハードル


30年前でしたら、藪御三家とまつやの暖簾をくぐり、一茶庵の足利参りをしているくらいで蕎麦好きを標榜できるような時代でした。そのころ素人が自宅で手打ち蕎麦にいそしむようなことはあまり聞いたことがありません。


1982年(だったと記憶しているのですが) 山本益博さんの「東京味のグランプリ」で東長崎「翁」注目が集まった時から蕎麦屋と蕎麦好きをめぐる事情に変化ができてたのではないかと思います。


藪御三家にとどまらず東京を中心に若い蕎麦屋さんに傑出した人材が現れ始め、小淵沢に移った「翁」の出身者が全国で台頭し始めました。食べる側でも全国を蕎麦だけのために歩く蕎麦好きが次々と情報を発信し、素人が自ら蕎麦を打つことを趣味にし始める人々の「こだわり」が注目され始めます。蕎麦好きが高じて脱サラ→蕎麦屋開業も不安視されることなく認知されるようになりました。


蕎麦好きの嗜好のレベルが高まることで蕎麦屋さんのレベルもどんどん上がっていったことは大変結構なのですが、その分蕎麦のハードルも高くなってしまったような気がします。ワインが通の遊びの道具のように扱われてしまい「ワインはどうもわからん」と敬遠する方が増えてしまったように、うわさに上る蕎麦屋さんには求道者のような蕎麦好きが独特の雰囲気をかもし出しているとも聞きます。


実際田舎町でも新店舗として手打ちをかかげる蕎麦屋さんはできても、親子丼、カレーライスがメニューに載る街場の蕎麦屋さんが新しくできるのはあまり見たことがありません。こぎれいに新しく仕上がった手打ち蕎麦屋さんには、こだわりのご主人がいるのが当たり前、下手をするとメニューの片隅にはそば粉は国産○○の粉をその日の分だけ引き、出汁には○○と○○・・・自らの「こだわり」も店の美味しさの一つとして打ち出すのです。そうなると食べる側にも肩に力が入るのか、批評家的に食べに行くようになってしまうのかもしれません。同じ蕎麦屋さんでも丼も置いている街場の蕎麦屋さんとはハードルの高さが違うのです。


私の場合、蕎麦のためにわざわざ遠くへ足を運ぶほどの蕎麦好きではありませんが、気になる新店舗ができると近場であれば一度伺ってみたいとは思うほうです。


昨日伺ったのは数ヶ月前に開店された一時間ほど離れた場所にある蕎麦屋さん。店の雰囲気、メニュー、値段を見ただけで、自らハードルを高くしている蕎麦屋さんのように見えました。たくさんの経験はない私ですが蕎麦の味わい(新蕎麦の時期ですし) 器使い 客あしらいなどなど30年前よりは判断基準が格段に上がってしまっていて、一見で伺うハードルの高い蕎麦屋さんは裏を返すかどうか?ついつい批評家的に判断してしまうのです。件の蕎麦屋さん、街場の普通の蕎麦屋さんであれば充分美味しくて近ければ通うべき蕎麦屋さんであるのに、自らハードルを高く「こだわり」の蕎麦屋さんにしてしまった分損をしているように思えました。「こだわり」が料理そのものにあられているかどうか?値段が味についてきているかどうか?批評家的であることが大嫌いであるはずなのに、ある意味挑むように蕎麦を食べている自分に気づいて赤面します。


蕎麦屋さんもラーメン屋さんも本来そういう食べ物ではなかったはずですのにねぇ。