浅はかな批評


あるラジオ番組で知性派として知られるキャスターが三谷幸喜さんの「マジック・アワー」を評して、「あの映画はトリュフォーの”アメリカの夜”を意識して作られたような気がします。同じように映画つくりを題材にし、映画の撮影時間帯を題名にしています」・・・・と。


百歩ゆずって三谷さんの頭に「アメリカの夜」のイメージがあったとしても、「刑事コロンボ」=「古畑任三郎」の1000分の一くらいの関係に違いありません。似ても似つかぬ二つをつなげあわそうとするのは「私は”アメリカの夜”を観ている」と言いたいがためか?映画にあまり興味がないのか?経済評論家とかキャスターとか国際派とか言われる方々の映画のお話を聞くと、専門外に批評的(特に批判的)あることには気をつけないといけないなぁ・・・わが身も振り返りつつ思うのです。いずれにしても公の発言がトンチンカンだと知性を疑われます。




本やCDはアマゾンで買うことも多いのですが、いつも気になるのが☆の数です。特に未知の音楽家、作家の作品ですとこんな☆なんぞ見たくもないと思いつつもつい見てしまいます。どれほど素晴らしい作品であっても、つまらない批判をしている輩がいるのです。


先日もFMで一曲だけ聴いたある女性歌手のCDを購入しようとアマゾンをクリックすると、「この程度の歌手はいくらでもいる」・・・と書く素人批評家がいます。私の耳には一曲でも歌い手の素晴らしい才能と、サイドマン趣味のよさ、プロデューサーの高い志が感じられたものですから購入を決定したのでした。案の定アルバムは長く聞き続けるであろう秀逸なできでした。デビューアルバムゆえに大事に・・・と二年もかけたアルバムであることもライナーノーツで知ると、二年間の創作の意欲をたった一言で切り捨てようとする了見が信じられません。どの耳をもって「どこにでもいる」と思うのか?エラ・サラ・カーメンと比べているのか?カサンドラ・ウィルソン、ダイアン・シュア、ダイアン・リーブスクラスと比べているのか?こちらの批評も自らの狭い視野と感性の鈍なことを大きな声で世界中に発信しているのであります。


ネット社会の今、モノを作る人間、創作する人間に浴びせる安易な批評が横行するのを見ることは耐えられません。その批判の一言一言は自身の乏しい感受性と表現力の稚拙さをおおっぴらにしていることを知っておいたほうがいいのだと思うのです。