店の歴史その一


「弁いち」は私の祖父がこの地に大正末期に開店したのが始まりです。


祖父は小学校に通いながら料理店に丁稚奉公に入って料理人の第一歩を歩み始めました。明治の時代にはそんな奉公も珍しくはなかったのです。丁稚奉公先はこの地の名料亭として有名であった「聴涛館」という店でありました。20代前半には一人前の職人となり、東京へ修行に出かけました。その当時、東京に出る料理人はほとんどなく、現在のフランスやイタリアへ修行に出かけるよりも遥かにハードルの高い所業であったそうです。


東京での修行先は「亀清楼」と「一直」 「亀清楼」は当時政財界御用達の最高級料亭、「一直」は今でも同じ家系の経営で浅草の名料亭として知られる店です。戦後のように関西料理の隆盛が始まるよりも遥かに前のお話で、修行するなら東京以外は考えられなかったと聞きます。


東京帰りの祖父に待っていた仕事は、その当時この地の最上の料亭「明石屋」の調理長でありました。20代前半と言えども東京帰りというのはそういう扱いをしてもらえる箔がつき、若くしてこの地の頂点を極めることができたのでした。


その後20代半ば、大正13年に今「弁いち」のある場所に自らの店を結婚した祖母と立ち上げました。この場所は戦前お殿様からお墨付きの「魚河岸」があった場所でした。魚河岸に隣接して江間殿小路という小さな「うまいもの横丁」と呼ばれる小路があって、その一画が開店の場所でありました。その小さな通りには現在も続く老舗といわれる店が軒を連ねていたのです。


最初は仕出しやお惣菜を扱う店から始まりました。仕出しといっても今のお弁当屋さん給食屋さんのイメージと違って、御茶屋、待合に料理をとどけるような(今でも祇園などにありますね)店。折詰もいまのコンビニ弁当のイメージとはずいぶん違うお弁当で、その当時の東京歌舞伎座のそばで有名であった「弁松」のような折詰を作ってみたいという思いもあったのと、自らの名前「五一」の「一」をとって「弁いち」としたのでした。


祖父と祖母が築いた戦前の店には若い奉公人も育ち、それぞれに巣立ってこの地で立派に独り立ちする料理人が何人も出ました。私から見ればおじいちゃんであった料理人たちは、死ぬまで祖父母を慕ってくれ「親方」「おかあさん」と頻繁に店に出入りしてくれていました。修行先というのは親も同然、今のようなあっさりした従業員としての付き合いとはずいぶんと違う濃密な人間関係が出来上がっていたのは祖父母の人徳でもあったのだな・・・と羨ましく眺めていました。


続く