三島


お恥ずかしい話ですが、いい歳をして三島由紀夫が全くわかりませんでした。若い頃何度か読んでも面白いと思ったことが一度もありません。


本を読むときに私の重点は、フィクションでもノンフィクションでも、ストーリーの面白さに偏ってしまっていて、ワクワクしなければ物語ではない・・・という風になってしまっていたのでした。


これもめったに読んだことがなかった浅田次郎のエッセイをお客様に進められて読み進むうちに、「三島こそが小説である」の度々の絶賛の言葉に、久しぶりに読んでみようか・・・と、買ってはあった「仮面の告白」を手に取りました。


これが・・・いきなり脳髄に衝撃が走るほど素晴らしい。というか、素晴らしさがやっとわかり始めたような気がしました。三島はストーリーの面白さを求めてはいけないのです。結末がどうなるのか、などはどうでもいいことなのです。ワクワク感は彼のきらめくような文章そのものにありました。むしろ結末を求めて読み終えるよりは、文章一つ一つに耽溺るるようにいつまでも読み終わらないのが三島を楽しむ方法であるのだと自分勝手に理解しました。


昔、金子光晴「マレー蘭印紀行」に入れ込んだ頃にはそういう読み方を楽しんでいたのに、頭が固くなってしまっていたのでしょうね。三島由紀夫、これから少しづつ楽しめそうです。



以前に文芸評論家の矢沢永一さんとお話をする機会を得た時にお伺いしたことがありました。


「親友の開高健さんがサルトル”嘔吐”をいつも絶賛していらっしゃいますが、面白いと思ったことがありません。読書力がないってことなんでしょうか?どこが素晴らしいんでしょう?」は、恥も外聞もなく。


矢沢さんいわく「あんなもん、開高が入れ込んでるだけです。私が読んでも面白くなんかありません。自分の感性で素晴らしいかどうかは決まるんですよ」と。


ああ、それでいいのかぁぁ。当たり前のことなのかもしれませんが、大家のお墨付きを直接いただいたようで、それ以来本を読むことに力が抜けて楽しさを求めるようになりました。


が、今回のように時間を経て目の上の鱗が落ちることがあるのも事実です。感動の幅が広がるというのは間違いなく人生を豊かにしてくれます。