祝儀袋

clementia2006-08-18



明日は従兄弟の結婚式です。おめでたい式にでられることは本当に嬉しいことです。


大阪のホテルでの披露宴ですので、なんとか時間を見つけて「ジャコメッティ展」も見に行けます。



さて、新幹線の予約を済ませ、祝儀袋は店のお得意さまでもある味岡さんの処で購入しました。


品のいい祝儀袋はこれが正式な形なのだそうで、そういえば近頃文具店などで目にする祝儀袋はデザイン重視が嵩じてかわいらししぎるものが多いような気がしていたのでした。本来こういう大切な儀式には「形」というのは大切な要素であるべきなのですが、デザイン先行のなかで失ってはいけないものまで排除されつつある傾向にあるようです。いただいた祝儀袋は水引もきちんと手仕事でまかなわれ、本来あるべき姿をきちんと守っているのだそうです。こういう仕事をされている作家にとっては、近頃の祝儀袋のあり方には何か居心地の悪さがあるのだというお話でした。


私の店で行われる結納や家族の顔合わせなどでも、上座下座、勘定の済ませ方、時間のきめ方などなど、「あれ?これでいいの?」と思うことはままあります。もちろん料理屋がとやかく言う筋合いのことではないのですが、こういう風潮はこの10年くらいのことの間に加速してきたように思います。私が知る祝いの席の姿はうるさ型と思われた両親やおじい様おばあ様から「こうあるべきである」と教えられ伝わってきたのですが、どこかで途切れてしまっているのでしょうね。


今世の中で起こる様々な事件や人間関係の崩壊、荒んだ人々の心の遠因には、無駄なものとして切り捨ててきた伝えれれるべき因習がはぐくんでいたものもあったのではないかと思ったりします。「こうあるべきである」と言われてきたものは、若者にはわずらわしいものでも、そこには日本人の思いやりとか人間関係の微妙な気遣いとかが隠されているのかもしれません。