品格の差


これまで伺った料理店の中でも、吉兆さんは高麗橋も嵐山もそびえたつ孤峰のように見上げる高いステージで仕事をしていらっしゃいました。自分の店がここまでたどり着けるには、果たしてどれほどの努力を重ねなければならないか、呆然とするほどです。


その高麗橋の吉兆さんが、この地の百貨店の美味いもの展にお弁当を出品させるという広告を見たのは2週間ほど前のことです。値段は3150円、50個限定。吉兆さんのお弁当の値段としては格別にお手頃で、きっとお付き合いであろうと想像できるのですが、はてさてどんなお弁当を作られるのか興味津々で予約の電話をしてみました。


当然のように私が気づいて電話したときには、予約分は完売「当日分がありますので、お越しください」との対応に、時間に合わせてデパートへ出かけました。「予約分完売」から想像するに行列ができているか、すでに売り切れているか、と思いきや、吉兆さんのコーナーにはだれも客はおらず、たくさん売れている様子もありません。まっ、それが地方都市の現実であろうと家族分を買い込んで早速昼食にふたを開けてみました。


お座敷で50000円の料理が普通である吉兆さんからみれば、3000円のお弁当は、私ン処でたとえれば、「500円でお弁当を作ってください」と言うほどの落差のある値段であろうと思います。50000円の仕事はとても無理でも、3000円であれば私ン処だって当たり前に普段から作っているお弁当の値段です。心の片隅に「この値段なら長年の経験から両店にそれほどの大きな違いはないかもしれない」という思いがありました。ところが、お弁当のふたを開けるとそんな考えがいかに甘いものか瞬時に思い知らされました。一言で言ってしまえば品格が違います。材料も味付けも器も吉兆さんの仕事はそのまま私でもできる仕事であるのに、同じ値段でいつもこのレベルの仕事をしているか?・・・といえば、全くしていません。私のはひどい田舎仕事でした。大甘にみれば地元に根ざした仕事といえなくはないかもしれませんが、私が目指していたのは今目の前にある吉兆さんのお弁当のような仕事であったはずなのに、「この地でこの値段ならこんなレベルの仕事とこの分量」というような自分にひどく甘く生ぬるい仕事に満足していたのです。3000円のお弁当はそういう私の下衆な心を打ち砕いてくれる力をもっていました。やっぱり吉兆さんは素晴らしい。


普段から“「田舎町だからこの程度」というような心持は一切ない”と言い放っていた自分が恥ずかしい思いです。地方都市の料理人はこぞってこういうお弁当を食べてみるべきです。「大都市の有名高級料亭の仕事なんてなんて、いい材料を使わせてもらえばいつでも俺だってできる」という田舎町の料理人の負け惜しみにいいそうな言葉が、いかに実のないものか。料理の品格と言うやつは値段の問題ではなく日頃から培った素養によるものであると知らなくてはなりません。たった3000円。いつでもできるこんな値段でも理解できるのです。その隔たりは計り知れないほど大きい。