すべてがポンニチではない


昨日ポンニチ音楽業界を「こんなの音楽じゃない」と貶したばかりなのでありますが、そうばかりではないという経験もつい先日したばかりです。


”BOOK OFF”で古本、中古CDを物色中に”TATSURO FROM L.A."というアルバムが目にとまりました。コアな山下達郎ファンのお客様にRCD時代の持っていなかったアルバムをすべて頂戴して、全アルバムがとりあえず手元にあるつもりでいたのに、「こんなんがあるんだぁ」と興味津々で購入してみました。


中身は山下達郎の曲をアメリカ人有名ミュージシャンがカバーしたというアルバム。POPSには詳しくない私でも知っているシンガーが何人か入っています。アレンジャーもプロデューサーもそれなりに有名な方らしい・・・・のですが、ちっとも面白くない。というか、全曲通して聴くのが耐えられないほどつまんないアルバムでした。アレンジもそこそこミュージシャンのレベルもちゃんとしているに腰が砕けちゃうほど平板なのです。裏を返せば、山下達郎のアルバムの完成度がいかに高いかという証明でもあります。


達郎ミュージックを
アメリカ音楽の模倣だ。
50-60年代POPSの焼き直しだ。
日本人としてのアイデンティティーがない。


なんて批判がいかに的外れであるか。アメリカ1950-60年代POPSに憧れ、それらの音楽が血となり肉となって山下達郎のなかで熟成されて噴出した音楽でなければ、前述のような気持にはなりません。ポンニチJpopがアメリカのうわべだけの真似ばかりで、技術的にガッツの部分でも遥かにおよばない恥ずかしい状況の中で、そうではない私たちが誇りに思うアーティスト(こういうのをアーティストと呼ぶのです)も間違いなくいるのです。要はリスナーがそれを見極めているか、心を揺さぶる音楽の根っこを捕まえられる耳を持っているかの問題なのです。


「ファンだからいう言葉ジャン」という批判には耳を貸しません、あしからず。偏見かも。