ポンニチポップ


昨日書いた村上春樹氏「意味がなければスウィングはない」には、「そうそう そうそう」とうなずく部分が多くあります。特に「スガシカオ」を書いた部分。



「これは面白そうだ、買ってみようと僕に思わせてくれるものが、日本のポップ音楽の中にはなかなか見あたらない」
「Jポップの多くは、一聴して、商品としてはスマートに作られているし、演奏のテクニックも立派なものだし、音作りにけっこうなお金もかかっているらしい、ということは理解できるんだけれど、肝心の音楽的内容に、説得力みたいなものがうまく感じられない。月並みな表現を許していただけるなら、はっとさせられるものがないのだ」
「なんだ、どれだけ新しいコロモに包まれていても、結局のところ、中身は”リズムのある歌謡曲”じゃないか」
「僕はその手の折衷的な音楽がどうにも個人的に好きになれない」
「しかし確率的に言って、あたりの数が圧倒的に(Jポップ)に少ないのは疑いの余地のないところである」
美空ひばりのジャズ・スタンダードをブラインドフォールドで聴かされて)「誰だかわからないけど、なかなか腰の据わったうまい歌手だな・・・とは思ったのだが、何曲か聴いていると、その”隠れこぶし”がだんだん耳についてきて、最終的にはやはりいくぶんへ辟易させられることになった」
「日本のポップスを聴いていると、その歌詞の内容や文体にげんなりしてしまって、そのせいで音楽全体を投げ出してしまうケースがかなり多い」



”そうそう””そうそうそうそう”と10万回言いたいほどうなずく言葉ばかりです。そう、私もそう思ってたんだよなぁ・・・という思いを一気に晴らしてくれるような言葉の山です。


そういう言葉から取って返すように「スガシカオはそういうJポップとは唯一違う」と言い切り、その素晴らしさを語っているのです。


そりゃ興味わきます。ぐんぐんわきます。聴かないわけにはいきません。



で、
聴いてみると・・・・村上氏絶賛ほど残念ながら惹きつけられません。音楽というのはあくまで個人的な嗜好の積み重ねであって、どれほど一般的に魅力的といわれる音楽でもすべての人を虜にするわけではないのです。当たり前でした。第一、著作最初のシダー・ウオルトンを書いた部分を考えても、そこそこウオルトンの音楽を聴き、村上氏と同じライブに触れていても「この文章でシダー・ウオルトンのCDを買って聴いても、”こんなもん?”って思うのが関の山だろうなぁ」と、そこでは冷静に判断できるのです。素人をその気にさせる文章が書けるということ自体が驚異的ではあるのですが。