蝉しぐれ


藤沢周平蝉しぐれ」は藤沢文学の最高峰の一つであるといって間違いないと思います。私も耽溺するように読みました。


NHKが連続ドラマで「蝉しぐれ」を映像化したとき、あの名作を映像にしても食い足りないに違いないと思いつつ見始めたにもかかわらず、思わず初回から惹きこまれ毎回の放送が楽しみであったTV時代劇ドラマの名作です。


その「蝉しぐれ」が今度は映画で。そうそう名作が生まれるはずはない、NHKでヒットした柳の下のドジョウを狙ったものに違いないとたかをくくっていたのです。ところが、土曜日にお見えになったお得意様が映画「蝉しぐれ」のパンフレットをお持ちでした。


「いかがでしたか?”蝉しぐれ”」
「かなりよかったですよぉ。TVも好きでしたが映画はまた格別です」と。



となれば、観に行かないわけにはいきません。日曜日に連れ合いとでかけると、会場はあまりシネコンでは見かけない熟年カップルがたくさん。予告で「手をこんな風に映像に合わせてみて下さい」というカードのCMに、言われたとおり手をかざすのは間違いなくこの一年近く映画館に足を運んでいない方々。一度でも見ていればからくりを知って言われた通にはしないのですが、「蝉しぐれ」の観客の1/3は手を映像に合わせてかざしていました。めったに映画館にこない人たちを惹きつける魅力を感じるのですね。



本編は、ともかく映像が素晴らしい。ワンショット、ワンショットあらゆるシーンが心に残るといっていいほど、今では見かけなくなってしまった美しい日本の四季が切り取られています。藤沢の故郷でもあり、藤沢文学の定番「海坂藩」を想定した山形で手抜きの一切ないセットを組み、日本中を長い時間をかけてロケハンした努力は見るものの心を鷲づかみにします。


俳優陣も心に残ります。形式美だけに囚われず現実に則したたたずまいを表現できる市川染五郎、息をのむほど美しさをワンショットで見せてしまう木村佳乃、息子兵四郎との別れのシーンで圧倒的な表現力を見せる緒形拳、演技を超えたところで存在感を感じた原田美枝子、抜刀の一瞬で凄みを現わす榎本明。


二時間少々というくくりの中では藤沢の長編を表現する事はもちろん、TVドラマの数編分を縮めてしまっては台無しと思った見る前の思いも、終わってみると申し分なく上手くまとめられていたのは監督脚本の実力。後で調べると監督脚本の黒土三男氏はNHKTVドラマの脚本も手がけていたのだそうで、TVでは表現できなかった部分を映画にという強い思いでこの映画を作っていたことを知って、すべてが氷解する思いでした。藤沢周平生前より映像化の承諾を得て実現するのに15年、黒土氏の藤沢周平への熱い思いがTVドラマも作り、さらに映画も完成させたわけで、TVと映画を比べることなど愚の骨頂です。自分の思いを実現させるために志を持ち時間をかけて物を作ればこのようないい作品が出来上がるのですね。


映画が原作を超えたことは未だかつてない・・・・という私の自説などもこういう作品の前では関係のない話で、小説家と小説への尊敬と敬愛は、小説とは別のところで人々の感動をよぶと考えたほうがよさそうです。