名演その15〜ビッチェス・ブリュー

極まれに、新譜で手に入れた真新しいアルバムの最初の4小節で、背筋がゾゾゾ・・・と震えることがあります。まさに神の啓示のように一瞬で凄いアルバムに出会えたことがわかるのです。


マイルス・デイビスのことは何度もお話してきました。私にとっては神様のような存在です。神様のマイルスでもLP(彼の音楽のほとんどはLPで聞いてきました)に針を落とした瞬間に雷が落ちたような緊張感と永遠に続くかと思うような至福に出会えたことは何回もはありません。


1969年のアルバム「ビッチェズ・ブリュー」はまさにその瞬間でした。ブラスバンドでトランペットを吹いていたとはいえ、当時ジャズファンといっても中学生だった私には難解だったはずの音の集合であったにも関わらず、アルバムが発するオーラに、瞬時に圧倒され、LPの片面が終わるまで身動きができなかったことをよく覚えています。よくわからんけどものすごいものに出会ってしまった・・・という感触。とてつもなくスケールの大きいものは、理解の範囲を超えていても畏敬すべきものであることは感覚でわかるものです。


「ビッチェス・ブリュー」に出会ったのが、リアルタイムであったこともジャズファンとしては幸せなことでした。当時はベトナム戦争真っ盛り、ジャズの世界では60年代のモード奏法とフリージャズの影響、ロックの台頭で伝統的な4ビートジャズの行く末が見えなくなり始めている頃でした。その二年ほど前からマイルスの劇的な変化は、ジャズファンには賛否両論議論百出であったのですが、この「ビッチェス・ブリュー」でマイルスは混沌の時代に向けて「俺のやりたい音楽はこれだ!文句あっか!!」とばかりに決定的な引導を渡したのです。クロスオーバーとかフュージョンなどという言葉はみんなマイルスの「ビッチェス・ブリュー」から発したのです。後で歴史を語ればもっともらしくお話ができるのですが、そのジャズ歴史の渦の中で漂っていた私など「ビッチェス・ブリュー」の音楽そのものに感動していただけでなく、このアルバムから何かが始まるかもしれないという歴史の鼓動のようなものも感じられたのです。中学の小坊主にもそんなことを思わせるほど決定的な音楽であったのです。


事実、この前後にマイルスの元で演奏をしていたミュージシャンたちは、1970年代にビッチェス・ブリュー卒業生として様々な音楽の方向性を打ち出しジャズ・ミュージックの牽引車になったのです。ウェイン・ショータージョー・ザヴィヌルは「ウェザー・リポート」を立ち上げ(最初の日本公演も聞けました)、チック・コリアは「リターン・トゥー・フォーエバー」を結成しレニー・ホワイトも後にこれに参加しました。デイブ・ホランドはその一つ前チック・コリアの「サークル」にも参加しています。キース・ジャレットアメリカン・カルテットと共に数々の名盤をつくり、ハービー・ハンコックはその三年後「ヘッド・ハンターズ」で今では何のことはないジャズとロックの融合に新提案をしました。ベニー・モウピンもそれに参加しています。ジョン・マクラウリンは「マハヴィシュヌ・オーケストラ」を結成しジャズの世界だけにとどまらない演奏に入り込みます。ジャック・デジョネットも4ビートだけにとらわれない様々なジャンルの音楽のトップを今も走り続けています。


考えてみると、あの時、1969年にマイルスに魔法の粉を振り掛けられたミュージシャンたちは全員が、その後35年間ひたすらトップを走り続け、ほとんどがナツメロ陥ることなくとんがり続けています。あれから35年以上も皆が皆最先端であることは奇跡としかいいようがありません。きっと「ビッチェス・ブリュー」は魔法の粉だったのです。


多くの方にお奨めはできないですが、ジャズの歴史を紐解きたい一握りの方には超お奨め。