ハンディキャップ

ピアニスト舘野泉さんのアルバムは1-2枚持っているだけで、ファンとはとてもいえないのですが、独特の透明感のある音を紡ぎだせる孤高のピアニストといった存在です。


舘野さんが脳出血のためにステージで倒れ、右手が使えなくなってしまったこと、その後懸命のリハビリで左手だけの演奏活動をはじめられたことはさまざまな形で伝えられていました。


昨日仕入れの途中、ラジオで医療問題を取り上げた番組に舘野さんが出演していたのを聞いて、初めて左手だけの演奏に触れることができました。番組の趣旨も「病気を乗り越えて」のようなものであったのですが、館野さんの演奏は左手だけとは思えないほど豊かで多彩な音色をもった素晴らしいものでした。技術的にも私のような素人には両手ではないかと思うようなテクニックで、病気以前の透明感はさらに研ぎ澄まされてきています。


これほどのアーティストにとっては、右手が使えないというハンディキャップを冠に乗せて演奏を紹介する必要は全くないような気がします。苦難を乗り越えたというお涙頂戴など、館野さん本人にとっても邪魔なものであるでしょう。左手だけだから表現できる素晴らしさは十分すぎるほど伝わってきます。そこで両手を使う普通のピアニストの「左手のための○○」という曲の演奏と、病気を克服して左手だけで弾いている「左手のための○○」の曲を区別するのは失礼です。ハンディキャップを心の中に置いて演奏を聞くのが感動を呼ぶのではなく、演奏そのものが感動を呼ぶのです。



逆に、クラシックやジャズでは「美しくて上手い」はすぐにメディアにもてはやされます。ポップスの世界では「美しい」は当然のようについてくる要件なのですが、クラシック、ジャズでは「美しい」が冠に乗ってしまうのです。多分演奏者本人にとって、そうやって売れることはある意味ハンディキャップではないでしょうか。「演奏だけを聞いてくれ」「素人受けする曲ばかりでなく、もっと大作に取り組みたい」と。


館野さんのようにマイナスのハンディキャップも、「美しい」のようにプラスのハンディキャップもアーティストであれば、取っ払ったところで演奏そのものに注目し、評価してあげたいものです。


とはいうものの、ラジオから流れる舘野さんの演奏からは、「音楽を演奏できる喜び」がヒシヒシと伝わってきました。こればかりは手が自由に使えなくなって、絶望のどん底からよみがえったピアニストでなければ表現できない喜びの賛歌なのかもしれません。