オー・ヘンリー

風邪気味で寝ていた息子が、「明日提出の宿題ができていない」と困り顔でした。


数学はまったくお手上げですが、英語なら・・・と聞くと、オー・ヘンリーの短編の和訳だというではありませんか。オー・ヘンリーくらいなら・・・・と半分お遊びのつもりでページをめくってみると、電子辞書片手でもちっとも前に進みません。恐ろしいほど訳がわからないのです。


こんなはずではなかった。子供の運動会で何年かぶりに走って体力が落ちているのに唖然とする父親のような心境です。


海外からのお客様に、ブロークンな英語でヨタヨタとお話しするくらいしかしていない今では、英文には全く接していないのですから当たり前なのですね。


20代半ば(ずいぶん昔です)、バックパック一つでアメリカをウロウロしていたときには、「卒業」やパブロ・カザルスの伝記、「ジャッカルの日」などを普通に辞書なしで読んでいたこともありました。あれはきっと英語しか接していない何ヶ月かがあって、何となく理解しているような気分になっていただけなのかもしれません。


今、高名な哲学者木田元先生のエッセイ「哲学の横町」を読んでいるのですが、中にこんな一節がありました。木田先生は戦後の混乱期にハイデッガーの「存在と時間」を読みたい一心で大学に入りました。入学直後、全くの独学で辞書を引き引き半年かけて「存在と時間」を読み通したのだそうです。


「はじめは一日に5-6時間かけても一ページも読めなかった。だが、こういう本は毎日読んでいると、それが二ページになり三ページになっていく。(中略)集中力には限度があるから、いくら読めるようになっても一日5,6ページくらいのものだろう。この程度のペースで毎日読む。こういう基本的なテキストを読むときは毎日続けて読むのがコツである。そうすると、次第に文体に体が馴染んでいく。そうなると、書かれていることがよく分かるようになる。そして、だんだんハイデガー流にしかものを考えられなくなるのだ」


存在と時間」を読みたい一心・・・というのも私などの想像を遥かに超えたお話ではあるのですが、これまでいくつも挫折してきた名作の山の中には「文体が身体に馴染む」前に諦めてしまったものがたくさんあるかもしれないと改めて勿体なく思います。


いきなり面白くて読み進めるだけの本ばかりでなく、じっくりと格闘するような読書もたまにはしてみたいもんです。