純文学とエンターテインメント


暗いだけの小説、重い救いようの無いような小説はあまり好きではありません。


いわゆる純文学というやつにはその手の作品が多くて、手を伸ばすことが少ないのですが、重松清「疾走」を一気に読んでしまって、果たしてこの小説は純文学、エンターテインメントどちらなのであろうか?疑問に思っています。


描かれるのは「おまえ」と二人称で呼ばれる中学生、成績のよかった兄は精神のバランスを崩し放火〜少年院送り、父はその後蒸発、母はギャンブルに溺れサラ金闇金融、過酷なイジメがあり、自殺、やくざの陵辱、殺人・・・・明るいはずの青春には一縷の光もなく、話が進めば進むほどずぶずぶと暗く陰鬱とした状況に陥っていくのに、読み進む私には重くのしかかるような気分よりは、エンディングには少年がすべてのものから放たれるような予感が感じられて爽やかさえ覚えてしまうのです。


文芸評論家の福田和也氏によれば、


エンターテインメントは作家は読者がすでに抱いている既存の観念の枠内で思考し、作品は書かれる。その枠内において人間性なり恋愛観なり世界観といったものは、いかに見事にスリリングに書かれていても、読書の了解をはみ出したり揺るがすことがない。


一方純文学の作家は、読者の通念に切り込み、それを揺るがせ、不安や危機感を植えつけようと試みる。


エンターテインメント作品は、読者に快適な刺激を与える。読者を気持ちよくさせ、スリルを与え、感動して涙させる。純文学作品は、本質的に不愉快なものである。読者をいい気持ちにさせるのではなく、むしろ自己否定自己超克をうながす力を持っている。


と納得させられる規定をされています。


「疾走」を読んで感じる快適とは言えないまでも刺激とスリル。自己否定と自己超克・・・・どうなんだろう??


小説も音楽もカテゴリーにおさめることには意味がないことは重々承知しつつ、「あーーー迫力あったぁ」感だけは間違いなく心に残ります。それにしても力のある作家であります。