昔話1


子供の頃、新幹線などまだなくて東京まで汽車(そういえば汽車と言っていました)で出かけるのは一日仕事でした。初めて従兄と横浜東京へ子供だけで旅行したときは一大冒険であったのをよく覚えています。


昭和30年代、東京は遠い場所であったのです。


さらに祖父の時代。祖父は若い頃東京で修行した人でした。当時の名料理屋「亀清楼」「一直」で修行をしたと聞きます。大正期に田舎町から東京へ修行へ出ると若者はほとんどいなかったそうで、東京へ出てきただけで勲章、帰ってきただけでその当時のこの地の有名店の調理長に迎えられたのだそうです。


大正期昭和初期の東京はさらに遠い場所でした。


それだけの距離感のあって情報も少なければ、各地の料理と言うのもそれぞれに地方色の豊かなものであったのです。関東料理と関西料理の差は歴然とあって、自分の店でも私が大阪の修行から帰ってくるまで、出汁に昆布を使う習慣はありませんでした。刺身も鮪が中心で、父など白身を積極的に使うのにはためらいがありました。


私ン処でも昭和50年代初頭でさえキントンや羊羹を店で練るのはごく当たり前のことで、薄口醤油はほとんど使っていなかったのです。


野菜も魚も地のものを使うのが当たり前で、少しでも離れた場所から鮮度のいい特定素材をを定期的に手に入れるのを至難の業でした。野菜などの流通は飛躍的に伸びた時代とはいえ、地物にこだわらなくても地物が中心だったのです。


ほんの25年、30年前でも流通と情報驚くほど少なかったのです。できる料理も使える素材もそれなりもので、懐古趣味的に昔の料理はよかったとか、昔の素材は素晴らしかった、とはいえない時代でした。