ラスト・サムライ


ラスト・サムライ」 製作・監督・脚本のエドワード・ズウィックをはじめこの映画のスタッフは、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の一言で、若い頃「葉隠」を読もうとして挫折した私などより、ずっとサムライに憧れ勉強しているのでしょう。


日本を描いた外国映画としてはかなりよくできた映画で、日本人の精神的な部分を肯定的にとらえてくれるだけで肩入れしたくなる気持ちがあるのも事実です。そうなると歴史的に疑問な様々な問題など、ハリウッド映画のエンターテインメントとして受け入れてもいいな、と度量も大きくなるもんです。


ハリウッド映画として世界へ配信されることを考えればいい出来であることは認めても、些細なことで「そりゃないだろう」といちいち突っ込みを入れたくなるのは、もしかすると今の日本の若者は「そりゃないだろう」と感じないほど、常識的なことを理解できないかもしれないという恐れを感じているからかもしれません。


たとえば、
「お寺で三宝を使っている」とか
「富士山の遠景からいきなりいかにも外国の雪山の遠景に変わっている」とか
「サムライの家屋に縄のれんのようなものがかかっている」とか
「仏壇(もしかしたら神棚)の手前に鎧が飾られている」とか
「家族の食事をお膳でなくてテーブルでしている、女性も同席して」とか
天皇が巫女さんみたいな着物を着ている」とか


これまでの映画に比べたら少ないとはいえ、こんな描きかたがチラチラっと見えると居心地が悪くなります。


銃を持たず精神の象徴としての「刀」を武器とするサムライと、近代化を目指し武士道を捨てようとする政府は、訓練されない農民が銃で武装して討伐に向かう。精神としての「刀」が、近代化の象徴としての「銃」に敗れていくとうい構図は、ハリウッド的に描くとこんな風になるのでしょう。それでも私には、黒澤明七人の侍」で死んでいく武士がすべて銃で殺されていることのほうが心に残ります。ハリウッド映画「荒野の七人」が黒澤のリメイクでも、武士〜農民、刀〜銃という精神性や社会構図の変化は描かずにエンターテインメントに終始しているのとは違うのですが、日本人が見ると武士道の描き方は、「よくやっている」ながら「??」もたくさん残ってしまいます。外国人がこの映画を見れば疑問なくわかりやすい武士道として受け入れられるのでしょうね。


私などから見ると、渡辺謙真田広之の熱演以上に、切られ役で有名な福本清三トム・クルーズの護衛、監視役)のたたずまいと立ち振る舞いに一番武士道を感じるのです。年季がの違いというヤツでしょうね。こういう年季によって身についているってのが私は好きです。