お茶〜フィニッシング・スクール


花嫁修業というのは死語になりつつあるのだそうです。


お花、お茶、料理教室、着付け教室。


若い女性のインタビューでは「お茶なんて普段の生活でたてることないし」・・・・と


確かに実社会では抹茶をたてることも飲むこともほとんどありません。花嫁修業という考え方自体が高度成長期の一つのブームだったのかもしれません。


私も、お茶だけは若い頃ほんの数年お稽古に通ったことがあります。最初は板前の素養の一つとしてお茶くらい・・・・というつもりであったのですが、その世界は覗いてみるとかなり奥が深いのです。


奥の深さはさて後日お話しするとして、お茶のお稽古で一番役に立ったと思うのが所作が身につくことです。お薄をたてることの一連の動作をを覚えることよりも、毎週のお稽古でふすまの開け閉てとか、座り方、立ち上がり方、場所に応じたお辞儀の仕方、歩き方などなど、繰り返すことによって身のこなしの基本が身につきます。


実はこの身につくというのが大事なのですね。


最近の花嫁修業たるフィニッシング・スクールでは、モデルのような立ち方、歩き方、フレンチ・レストランでのテーブルマナーなどを勉強するようですが、2回や3回の講習で勉強するのとお稽古の中で自然に身につくというのとは訳が違うのですね。


所作が身についた方は、畳の上でなくて立ち姿でも外国の方と握手でなくお辞儀が優雅にできます。


フレンチ・レストランで鶉が骨付きのまま出てきても、懐紙で骨をつまみ、ナイフフォークを使わないで美しく食べることができるでしょう。


江戸時代後期に海外へ使節で出かけた武士の洗礼された身のこなしに、外国人が驚嘆したという話を読んだことがあります。身についたものというのはそういうものなのです。


自分のアイデンティティを持った所作は世界中どこへ出ても恥ずかしくありません。付け焼刃で習っただけの外国の物まねとは違うのです。


加藤周一氏が著作の中で言っていた、お茶は日常の生活そのものが芸術となった唯一のものである・・・・というお話は説得力があります。


まっ、私の場合、お茶自体も付け焼刃なんですが。。。。。