飢饉〜働き口


今年の米の出来は十年前のタイ米輸入騒動を思い起こすほどの不作だそうです。実がならない稲穂は頭をたれず、本来なら黄色い絨毯のようになるべき田んぼは、軽い稲が突っ立ってぎざぎざです。


昭和初期くらいまでだったら「大飢饉」と言われるのでしょう。


さらに宮城では大きな地震の余震が未だに続いていると聞きます。


飢饉と地震、火星が赤く大きく見えるともなれば、世の中の混乱は凄まじかったはずです。


戦争前、父や祖父の時代には、東北地方からの人手はいくらでもあったそうで、私ン処のような小さな料理屋でさえ、父や叔母たちが子供の頃には子供一人にお手伝いさんが一人付くもの普通であったと聞きます。


中学を出て板前になろうという若者も、紹介者を経て途切れなくやってきました。


お父さんお母さんに連れられて、いがぐり頭の少年が店の門をくぐり、住み込みで朝から晩まで働きます。


周りの商店だって、小僧さんで店に住み込みで入り、手代、番頭さんと一人前になって暖簾分けをして一国一城の主になりました。サラリーマンなどという人種はある意味エリートだったのです。


お休みはお盆と正月くらいが父の時代でも当たり前でした。私が修行後店に戻ったときも、月二回くらい暇なときに休むのが普通でした。


親の顔を見て、紹介者を信頼して修行する子たちが店にやってきた時代には、半年や一年で店を止めてしまうことなど恥で、親の顔も紹介者の顔もつぶしてしまう行為でした。


今、調理師学校からやってくる子供たちは、親が挨拶に来ることなどあるはずもなく、専門学校のために何百万もかけた親の期待も知らずに、「やっぱりこの仕事は性に合いません」と三ヶ月で辞めてしまう時代になりました。


食うのに困り、口減らしなどという言葉があった世間が貧しい時代のことも、記憶にとどめておくべきなのだと思います。