秘密


初めて読んだ東野圭吾「手紙」が素晴らしく面白かった、という話をしましたら、「ならば是非”秘密”も読むべきである」とお得意様に教えていただきました。


手に取った文庫版「秘密」の裏表紙のダイジェストをみると、「ああ、これって数年前広末涼子主演の映画になったやつ」と流行おくれの私は、話題になっていた映画が東野圭吾の原作であったことさえ知りませんでした。


あの方が奨めるくらいなのですから映画を遥かに超えているはずと思いつつ読み進めると、案の定小説の素晴らしさに引き込まれるだけでなく、逆に日本映画のその浅さに暗然とした心持になりました。


「原作を超える映画はない」という原則は海外の映画でもいえますが、映画「秘密」の場合は原作の足元にも及ばない広末涼子のための映画でしかなかったような気がします。


映画館で見ていない私には大きなことは言えないのですが、小説ではもっとも重要な後半部分の登場人物の心の葛藤とエンディングの感動は、映画ではどういうエンディングかさえ記憶にないほどの印象に薄いものでした。


「手紙」を読んだときも思った、この作品のTVのお昼の帯ドラマで取り上げそうなわかりやすい設定が、読み進みしたがって、人の心のひだに部分に深く入っていくような書き込み方に変化があります。


TVドラマですぐ使われそうでも、決して作品の真意は伝わらない「お涙頂戴ドラマ」になることは間違いありません。


同じことはすでに「秘密」で行われていました。


映画作りをする人たちが原作を読んでいたとしたら、「まっ、別もんだから」と思うのか、「こんなもんでいいか」と思うのか?


「漫画の原作が多いTV番組比べればまだまし」と思うのか?