評論

この「シックス・センス」の世界を霧のように覆っているのは恐怖ではない。悲しみだ。自分は他人と違っているのだという少年の悲しみ。その少年を愛していながらどうしても理解できない母親の悲しみ。かつてそうした少年を救い得なかったという精神科医の悲しみ。だが、やがて、私達はそこに思いもかけない別の悲しみが存在していることに気づく。いわば、私たち観客は、その「もうひとつの悲しみ」に出会うために「シックス・センス」というローラー・コースターにも似た乗り物に乗り、一時間四十七分の旅をするのだといってよい。(沢木耕太郎「シネマと書店とスタジアム」より)


そうだ。
悲しみだったんだ。


M.ナイト・シャマラン監督の映画「シックス・センス」をご覧になった方も多いと思います。先日もTVで放映されていました。


私も日記で興奮して「凄い映画、凄い新人監督」と書きたてた覚えがあります。


が、
しかし、
「映画を霧のように覆っているのは恐怖ではない。悲しみだ」と喝破する力も文章力もありませんでした。


凄い!面白い!最高だ!というのはだれでも思うこと、ことにこの「シックス・センス」ほどの映画になれば「すげーー」と感じるのは当然のこと。思わないほど感性が鈍ったら困ります。


が、映画の底に流れる主題、監督の思い、紐が絡むように込み入って描かれる深層を解きほぐし、言葉に表わすには能力が要ります。


沢木耕太郎氏の文章には見事にやられてしまいました。


映画評論とはこうあるべきです。


「この映画は素晴らしい」「この監督のあの作品に比べてどうだ」「駄作だ」「つまらん」「見るものがない」などなど。


世なのかに溢れる批評家の映画評のほとんどはこの類の「良い悪い評」ばかりです。


実際には映画を創る能力も、脚本を書く能力も、もちろん演じる能力もない人間の、面白いの面白くないの・・・・・の言いたい放題に比べたら、沢木氏の文章は輝いてみえます。


いいんだけど、なんでいいのか言い表わせない、面白いんだけど、どういう構造で面白いのかわからない、監督の感受性の震えを見つけられない・・・・というのをぱっと霧が晴れるように表現してくれる・・・・そういう評論家こそが評価されるべきです。


映画にも、「美味しい不味い、居心地がいい悪い」の主観しかない料理評にも待ち望まれます、正しい評論。